「レビュー」っつーのは何?

「批評」が機能しない時代を迎えている?

「レビュー」という言葉を知ったのは、いつだったろうか。レビューとは、大辞林によれば、「批評、評論、書評」とある。批評、評論、書評、という言葉は、それ以前から知っていた。単純に言えば、その英語表現なんだろうなとは、アホの私にも想像はつく。

 しかし、私がここでいうレビューは、そうしたものではない。「アマゾン・レビュー」「食べログ・レビュー」「映画・レビュー」的なアレだ。☆3.2とかのアレだ。
 レビューはインターネットが育んだ、大事なカルチャーだとも思う。不特定多数による、忌憚なき意見、感想。それが☆いくつとして猿でもわかる形で明示されつつ、その後に個々の感想文が続く。

 レビューとは、たいへん民主主義的な感想文だ。ここでの民主主義とは「平等を前提とした多数決」という意味であり、感想文というのは「プロアマ関係ない評価」という意味である。

 果たして、この「レビュー」と「批評、評論」は同じなのだろうか。今、評論という言葉はあまり使われなくなったように思う。批評という言葉は、非難、批判の意味で混同されている気がしてならない。

 批評は、非難とは明確に違う。非難とは、何らかの価値観や特定の人を否定することだ。お前は誤りであると指弾することだ。批判は、もともとは違う意味があったが、非難とほぼ同義になっていると言っても過言ではないだろう。

 では批評とは――それは、自分が持ちうる経験、知見をもってして、己の切り口で意見を言うことではないか。褒めるのも批評であり、貶すのも批評であるのは、その意味では自明である。もっと言えば、それが正しいか誤りかは大した問題ではないし、大局的に見て生産的な行為でなくてはならないとは思う。

 しかし、今や多くの人が、非難と批判と批評の区別がつかない状態に陥ってしまった気がしてならない。なぜかは簡単で、批評的な視座が持てなくなった、すなわち「自分が持ちうる経験、知見をもってして、己の意見を言う」能力がなくなったからだ。

「批評家」の傲慢と「☆」の肥大

 かつて批評家や評論家という者がいた、と過去形で語ってみる。彼らは自分が正しいと思う、自分の知見でもって、自分の意見を綴り、語り、していた。彼らは初めはおずおずと意見を述べながら怯えていたのだが、次第に聴衆から共感を得るうちに傲慢になっていった。
「オレが言うんだから、正しい」と。「わからないお前が、反対意見を述べるお前が、バカなのだ、誤りだ」と(もちろん、ここでの批評家、評論家は特定の人ではなく、全員ではなく、過去形の状況だ)。
 「権威」としてふんぞり返る彼らの脅威となったのは、「インターネット」だった。まさか、「権威」たる私の御言葉が、どこの馬の骨ともわからぬ素人の駄文と、同列に並べられようとは⁉ ところがどっこい、あまりにもクリティカルに権威側の誤りを指摘する素人の意見、権威なんぞよりよほど詳しく実のある素人の知見……会心の一撃、いや何百撃をも喰らわせたことであろう。

 それこそが当初の「インターネット」の夢の一つではあったのだろうが、そうは鮮やかで美しく事は進まなかった。批評家の悪しき権威が失墜するのと軌を一にして、「批評」は「レビュー」となり、次第に☆いくつになってしまった。

 批評家は権威ではあったかもしれないが、必ずしもみながみな、「正しい」と崇めていたわけではなかった。だからこそ、「神話崩し」も、「超克」も、ありえた。むしろ「権威」は殺されるためにこそあった。

 しかし、レビューの世界では、乗り越えるべき「モノ」がない。ただただ不特定多数の集積の☆の多寡があるばかりで、それに対してのさらなるメタ的な批評など存在しない。あるのは、☆がいくつである、という数的絶対だけである。
 
「何々先生がこういってるんだから、絶対にそうだよ!」という腑抜けた輩には、なんとでも意見ができたが、「みんなの意見を集計したところ、これが絶対となりました!」という「結論」には、意見する術がない。

本当に個人は「批評」を捨てうるのか?

 そういう状況で、人はどう生きるのか。あらゆるランキングを見たうえで、上位になった映画や音楽、本、食事などなどに触れて生きていく、というのも一つの態度かもしれない。
 膨大なレビューを読み込んで、☆よりは精度の高い大局をつかんで、選択していくのは、もしかしたらもう少し賢いのかもしれない。

 しかし、私は「自分が持ちうる経験、知見をもってして、己の意見を言う」態度を人が容易に捨てられるのだろうかとも思う。「みんなが好きなアレが自分も好きで、みんなが話題にしているアレに自分も参加したし、みんなが好きなアレを自分もやろうと思う」なんて人、いるのだろうか。もしいたら、はっきりいって気色悪い。

 「みんな」なんてない。「自分」があり、「あなた」がある。「自分が持ちうる経験、知見」は誰にでもある。それを「己の意見を言う」かどうかは別だが、どうしても批評的な態度をとってしまうのが人間ではないだろうか。

 それを、非難や批判と一緒くたにするのは、あまりにも無自覚だ。存在もしない「みんな」だけを意識して、非人格的に生きている証ではないか。インターネットは、万人に「自分の意見」を拡散する手段を与えた。が、それは内容の良し悪しとは別に、圧倒的に無責任を生んだと思う。
 責任なく、吟味もなく、まして内省もなく、反射神経的に非難や批判をしてもよい、という啓示を、多くの人が「インターネット」という神様からもらったのだろうか。
 そうだとしたら、最後の審判を待つまでもなく、「みんな教」の信者はイエスを超えたのだろう。

 翻って、批評には責任が伴う。何の後ろ支えもなく、安心を与えてくれる背景もなく、「己の意見を言う」のだから、当たり前だ。それは自分だけのオリジナルとして育んだわけではない借り物たっぷりの「経験、知見」ではあるだろう。でも、人が人格的に、自由に生きるためには、当然なこととして批評的な態度は必要なのだと、私は思う。

難しいこと言ってる わかったような顔してる
財産8割歩いてる 大きなスタンス歩いてる
きらいな言葉 言わないから好きさ
タバコを立ててすわないから好きさ
いっしょうけんめい話すから好きさ
わかったような顔しないから好きさ
自分の言葉で話すから好きさ
悪口ばかり言ってるから好きさ
ただ ただ楽しい あなたが好きさ
暗い僕を盛り上げるからね
(Fishmans「チャンス」作詞:佐藤伸治)

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