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至高の人「平野レミ」について語りたい!②

妊娠・育児本の名著『ド・レミの子守歌』

 平野レミと言えば、「きょうの料理」でお馴染みの、赤い帽子と前掛けが印象的な「料理愛好家」のイメージが強いだろう。実際に、彼女は本もたくさん出していて、レシピ集が多い。
 私はレシピ集は読んでいないのだけれど、平野レミはエッセイ集も出していて、こちらは読んでいる。まずは、妊娠・育児の体験をつづった『ド・レミの子守歌』(中公文庫)の紹介から始めたい。私が持っているのは、2013年刊行の中公文庫版だ。
 この本には、平野レミの言語感覚の鋭敏さ、可愛らしさと優しさを兼ねた感性が横溢している。私の中では、育児エッセイとして、フランス文学者・野崎歓先生の『赤ちゃん教育』(青土社/講談社文庫)と並んで好きな本だ。一応、こちらもリンクを貼っておこう。

 と思ったら、絶版かいな! ちなみに講談社文庫版より、青土社版のほうが装丁はよいというかマシで、もっと言うとどっちも装丁がよくない。
 そういえば数年前に、知り合って間もない、出産したての一周りくらい上の方になぜかお貸ししたことがあった。「すごい面白かった、こんなエスタブリッシュな子育てしたいわ~……」という感想をいただいたことを思い出した。が、いま振り返ると、ちょっと現に修羅場の子育てをしているお母さんからしたら、少し綺麗すぎたかもしれない。「……(できないけどね)」と思われていたかもしれない。どうしても父親目線の本でしょうしね。
 しかししかし、非常に美しい文章を書かれる方の、非常に愛とウィットに富んだ本なのは間違いないのです(ほぼ知らない人に本を貸すって、たいがい頭がおかしいな私と、思わず反省の念を抱いてしまった……)。

 脇に逸れて長くなってしまったが、その意味では、本当に率直に母親としての妊娠、出産、育児の体験が綴られているのが、『ド・レミの子守歌』なのだ。
 この本は、このようにして始まる。長いが引用しよう。

 私は二年半前に結婚した、まあまあ新品の主婦。結婚する前はラジオの仕事をしたり、シャンソンを歌ったりしていた。
 仕事は、めちゃくちゃ楽しくて、どういうふうに楽しいかというと、好きなことを何でもかんでもおかまいなしにしゃべって、それでもお金をもらえたから、これでお金をもらえるなんて世の中まちがってるんじゃないかしらと思ったほどだった。(中略)
 仕事をやりながら、恋のようなものもいっぱいしたし、結婚しそうになったこともちょっとあるけれど、なんとなく恋と結婚とは違うなあという感じがして、結婚のことを考えると先が真っ暗になってしまう。私は一生結婚できないタチだと思っていた。
 そんな時に今の夫が現れて、インスピレーションというのでしょうか、知り合って一週間で、ほいと結婚してしまった。
 仕事も楽しいけれど、結婚のほうがもっと楽しいような気がしたのだ。二年半たった今、そのころよりももっと楽しくなっている。だから私のインスピレーションはまちがいじゃなかった。(『ド・レミの子守歌』中公文庫)

 まだ「料理愛好家」として知られる前の本で、タレント、歌手として表舞台に出ていなかった、世間的にはいわゆる「雌伏期間」ということになるのだろうか。おそらく1976年刊行の親本は、初の著作だと思う。

妊娠・出産への不安をユーモラスに描く

 平野レミの子どもは、和田唱、率、の二人。ちなみに父親は、フランス文学者の平野威馬雄だ。『すてきなおかあさん』(文化出版局)連載の妊娠体験記(PART1)と、『読売新聞』連載の(長男)育児体験記(PART2)に分かれていて、たとえばPART1にはこんな文章が出てくる。

 つわりが始まった。普通の人は二か月くらいからなのに、そのころはなくて食欲もりもりだったから、私はつわりを知らないで過ごすことができそうな気がした。でもだめだった。(中略)
 たまにはステーキを食べようということになって、妊娠祝いを兼ねて、赤坂の最高級のステーキ屋さんに行った。ワインを飲んで生肉食べてステーキを食べた。一人前一万二千五百円なり。おいしくておいしくて、食べたところまではよかった。
 うちに帰ってきてしばらくすると、だんだん例のオエーの感じが始まった。でももったいないから、ぐっとこらえた。
 こらえてたら口もきけなくなって、それでもこらえていると頭が痛くなってきた。
 目が回ってきて死に物狂いで、もう洗面台に駆けていった。夫が、
「どうした、また吐いちゃったのか」
 ときくから、ほんとうは一万二千五百円分出しちゃったのだけれど、ほんとうのこと言うとせっかく連れてってくれたのにかわいそうだから、
「三千円分だけ吐いちゃった」
 と言っておいた。(同前)

 リアルな金額でつわり(=嘔吐)をつづるユーモラスさ。それと、「かわいそうだから」三千円分だけ吐いた、と言う感覚。平野レミの魅力の一端が伝わってこないだろうか。これに和田誠の楽しいイラストが添えられているのもにくい。
 PART1では、こうしたユーモラスさを決して忘れずに、自分が妊娠して初めて、子どもが産めない人のつらさに気づいた話、早産し、その未成熟児を亡くした友人の話、健康体だったはずなのに、出産によって亡くなった義理の姉の話、自分自身が果たして子どもを可愛いと思えるかという素朴な疑問、出産に向かって高まっていく不安、……などなど、率直につづっている。

「子どもは女の子がいい」と言ったけれど

 PART2で記述される対象は、ほぼ産まれた息子、和田唱だ。のちに人気スリーピース・バンド「TRICERATOPS」のボーカルとなる彼だ。



誰かの芸がもう 今君のものでも それを嫌えば僕らだって矛盾してくる 真似して銀のリングはめる僕も別に 特別ではないという事さ 分かってるだろう? それなのに上に上に突き進んで どこまで行けるか 確かめてみたくはなるのさ 月に行くほど遠く長い道も 歩いて行けるさ なぜならば まだまだ足りないから(「GOING TO THE MOON」作詞・作曲:和田唱)

 このPART2では、「回るもの」が好きな息子の様子、幼児の言い間違いする可愛らしさ、成長につれて抱く、発達の度合いや友達付き合いができるかについての不安が、平野レミの鋭敏な感性でつづられている。

 ところで、気になることが2点ある。1点は、ラジオ番組で「男が出るか、女が出るか」をお決まりに叫んでいた平野レミが、出産に際して「男か、女か、どっちがいい」とお決まりの質問をされたとしたら、「女がいい」と明確に何度か書いていることだ。

 男の子と女の子とどっちがいい? ときかれるようになった。
 一日に一回は誰かしらに必ず言われる。私は、
「女の子」
 と答える。女の子は話し相手になるもの。洋服取り替えて、二人だけで家の中でファッションショーもできる。(『ド・レミの子守歌』中公文庫))
 (次男の率を産んだとき)私は今度は女の子が生まれると信じていたのだけれど、男の子だった。女の子の方が、私が年をとってから、今の私と私の母のように、いつも電話で会話をしたり、一緒にデパートに行ったりして楽しくやれる。男ときたら、私の兄もそうだし、夫もそうだし、家をいったん出たらなかなか家に寄りつかない。そう思ったから、次は女の子を望んだ。(同前)

 「時代」というのはある。今どきは「男が出るか、女が出るか」なんてフレーズが、メディアで使われることはないだろう。逆に平野レミは「混血児」という言葉を使う(ちなみに父親の平野威馬雄はハーフ)し、話すときにしばし女性言葉を使う。
 ある意味では、当然に「時代錯誤」な内容を含んでいる古い本をわりに読む私は、だから最初に読んだときは気にも留めていなかったのだ。が、こんなインタビュー映像を観て、驚いた。

――家族が増えたことによって何か変わりましたか? 今年。
家族が増えたってことはさ~。だって、だってさ~。娘がさ~あれよ。食費もいらない、教育費もいらない、なんにもいらない、そのまま大きくなって出来上がったまんま、うちにさ~娘として、タダでうちに来てくれて。こんないいことないじゃない、二人も綺麗なのが来ちゃって。全部出来上がった人間が、そのままうちに。ありがとうございますって感じ。向こうのご両親に本当にありがとうございますって。(動画の3:10~3:46)

 インタビュアーにどんな意図があったのかはわからないが、「上野樹里」か「嫁姑」的な話題が欲しかったのかもしれない。
 違うのだ、平野レミという人は。ただただ、自分の子とかどうとかではなく、娘が欲しかったのだろう。そして、こんな言葉は子どもに愛情を注いで、苦労もして、必死に育てた人にしか発せられないだろうと思う。
 『ド・レミの子守歌』には、こんな言葉も載っている。

 もう朝になっていた。誰にも頼れない。自分の力しかないのだ。産まなければこの痛さは終わらない。(中略)一瞬シーンとした。私も気が抜けた感じでスーッとなった。ああ出たんだなあ、と思った。(中略)
「オギャー、オギャー」
 と、かすれた低音の泣き声が聞こえた。
「男の子ですよ」
 と先生が言った。(中略)私が寝ている顔のすぐ上におちんちんがあった。きまりが悪いくらい大きく見えた。(中略)
 赤ちゃんのおちんちんが大きく見えた話をしたら、千夏ちゃんは、
「みんな、男だとか女だとかいうことを誇示しながら出てくるらしいよ」
 と言った。感激して涙がこぼれた話をしたら、
「それじゃレコード大賞もらった時こぼす涙とおんなじじゃない」
 と千夏ちゃんが言った。私は、
「そんな安っぽいもんじゃないよ」
 と言った。(『ド・レミの子守歌』中公文庫))

 この本の最後は、この一文で終わる。

私が唱や率と友だちになれるのは、いつのことかしら。(同前)

 なんて破格な人間なのだろう。ただただ「楽しく生きる」ことだけを望んで、それに一直線に生きられる人なのだ。(つづく)

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