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誰かのセンチメンタルに興味がなくなって、私は音楽を聴くのをやめた

まあ誤解を生みそうなタイトルにしてしまったけど。

今までの私は、「そう!それ!その気持ち!!そうそうそう!わかる!!そうだよね!!!」って具合に、心の機微を的確に表現した歌詞に心を寄せてはそれを良しとする、歌詞で音楽を聴くタイプだった。

でもいつからか、他人の惚れた腫れたやら、大人になれないモラトリアムやら、そんなセンチメンタルでメランコリーな言葉に魅力を感じなくなって、音楽(正しくは、日本語で歌ってる邦楽)を聴くのをやめた。

なんていうか、自分から共感しに行くことをしなくなった。

言ってしまえば共感って、他人の尺度で物事を感じ取ろうとする努力のことであると思ってるんだけど、私個人的には共感ってそれを超えてもはや追体験みたいになってて、失恋の痛手やらもう戻れない過去への喪失感やらに、誰かの歌詞(言葉)によって2度3度と繰り返し傷ついてた。
(もともと成就した恋愛とは程遠い人間なので、ダーリンと永遠に一緒だっちゃ~♡みたいな歌詞には共感しにくく)
それまでは、追体験によってふたたび傷つくために音楽を聴いていたきらいがあったけど、もういい加減傷つくのに飽きたせいか、自分という自我が確立できたからか、誰かの言葉に迎合してまで傷つく必要性を感じなくなった。

そうよ、誰かの言葉によって傷つくことをやめたんだ。

そういう音楽の聴き方をやめると、邦楽(日本語の歌詞)に全然魅力を感じなくなってしまって、あれほど日常にあった音楽から遠のいてしまった。

日本語の深い意味や表現の広さは大好きだし、そういう表現ができる言葉を綴れる人のことを尊敬もしている。でも、私にとっては引力の強いそれに自分から近づいて追体験したいと思わなくなったんだな。

これは近年深刻である「他人への興味・関心の欠如」というテーマにも通じていくと思うんだけど、私自身が毎日ごはんがおいしくてしっかり出せてよく眠れたらもうそれだけでオッケー!みたいなすごくシンプルな考え方ができるようになったせいか、むしろ生活にゆとりがなくなって複雑怪奇な心のひだまで一つ一つを紐解いている暇がなくなったせいかはわからない。
でもなんとなく、良し悪しを判断する自分だけの尺度をもっと信じられるようになったのかなあとは思う。

なので最近はインストばかりなんです。日常のBGM。


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