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2023年映画感想No.42:ソフト/クワイエット(原題『Soft & Quiet』) ※ネタバレあり

差別主義者の論理を身もふたもなく映し出す会話劇

ヒューマントラストシネマ渋谷にて鑑賞。
差別によって享受してきた優位性が社会の是正によって失われつつある状況を不当な扱いと主張する差別主義者たちを映す。
私たちは逆差別されている!不当な扱いを受けている!これはおかしい!という主張が全て差別主義的な価値観に裏付けられており、それを被差別者たちの論理を借りて理論武装するのも極めて悪質なポジショントークとして描かれる。そしてそういう自己正当化が結局のところ「私たちは優れていて私たちだけの世界になるのがあるべき社会の形だ」という「彼女たちがそうであってほしいと信じてやまない思い上がった自己認識」を強化するためだけの都合の良い主張として割と身も蓋もなく表出するのがあまりに反知性的で呆れてしまうくらいだった。
そういう価値観の象徴的な存在として映画の冒頭から登場するエミリーという女性が物語の中心に配置されている。典型的な差別主義的思考にアイデンティティを支えられている人物なのだけど、同時に後にわかる兄の事情からも物語が始まった時点ですでに彼女の信じる正しさは社会的に正しくないという破綻を抱えてもいる。だから彼女がすがろうとしている正しさは結局どこまでも正当化されないし、追い求めるほど結局は破滅へと向かっていくしかない。

破綻したアイデンティティをなんとか正当化しようとしている主人公

彼女の背景には白人至上主義的な古いアメリカ的価値観が確固たる思想としてあり、その内側の存在だったことで社会の一員としてアイデンティティの肯定や承認を得られてきたのであろうことが端々から透けて見える。一方で、だからこそ不妊という「アメリカの伝統的家庭の理想的な白人妻像」に属せないことが自己肯定を見失わせつつあり、そうやって信じてきた自己が否定されるのを受け入れられないがためにすがりついてきた差別的価値観を正当化し、強化しようとしている。
簡単にいうと「あなたは正しい」と誰かに言ってもらいたいだけの人間であり、だからこそ後ろめたさをチラつかせ正しさを揺さぶるような発言をしたマージョリーのことはそれ以降敵視に近い見下し方をする。

ワンショットを活かした冒頭の演出

ワンショットの撮影で幼稚園のトイレから出てくるエミリー、すれ違う黒人の清掃員、通り過ぎる子供と視点が移っていくタイトルロールまでの流れが何を映す場面なのかをサスペンスフルに引き延ばす見せ方として非常に緊張感がある。
そうやって移動していたカメラが止まったところから始まる会話にフォーカスさせ、その会話へのある種のノイズとして再び清掃員が登場するという見せ方もエミリーにとって黒人清掃員がどのような存在であるのかを象徴的に演出しているようで上手い。
子供を黒人清掃員にけしかける一連のやり取りも自分に差別的意図が無いという言い逃れの余地を作っていたり、母親に小さな嘘をついて自己正当化したりとエミリーのソフトかつクワイエットな差別の論理がしっかり提示されている。
ここでのやりとり一つとっても彼女たちは自分たちの考える正しさがポリコレ的には正しくないことを自覚していることがわかるし、その上でなんとか黒人をその場(その社会)における悪として位置付けようとするのが極めて悪質な立ち回りとして映し出される。

自己正当化と責任転嫁~レイシストの歪んだ社会認識

「アーリア人団結をめざす娘たち」の会合が始まって集まった女性たちがエピソードトークで社会への不満という差別的価値観を露呈していくところも、欺瞞に満ちた建前に包む差別主義者たちの表現が馬鹿馬鹿しくて面白い。マージョリーの「特定の個人を批判するつもりはないのだけど、コロンビア人に出世を横取りされた」という表現とか逆にストレートな人種差別になってて笑ってしまった。
上司から「彼女の方が指導力があるからマネージャーに推薦した」と言われたことを逆差別と表現するなど「自分に問題がある」という発想を持てないことがレイシストたちの基本スタンスであり、そうやって「自分たちの置かれている不満な状況は誰かのせいだ」というエゴイスティックな責任転嫁は後の惨劇にも一貫して繋がっていく。

一長一短の演出と構成

一繋ぎのワンショットで全編を構成するという撮影的演出はやはり一長一短があって映画にとって一貫した効果を挙げるほどの強度は無いと思う。そういう撮り方をする必要が無い場面はどうしたってあるし、単に見せ方の制約が情報の無駄な限定や観客のストレスになってしまっている部分も生まれている。
一方で長回しならではの面白さが立ち上がる瞬間も含めて、長回しであることを意識したり、逆に意識しなかったりと、映っているものの前提にある技術的な興味で場面を観る面白さが強いのがこの演出ならではの映画体験として興味深かった。
時間感覚が繋がっていることで「変化」が際立つのが映画全体でも場面単位でも構成の肝として強く意識されているように思う。会話劇としてその場の空気がどう変わっていくのか、関係性がどう立ち上がっていくのかをその場に居合わせるような距離感でリアルタイムな時間間隔の中に観察できるのが面白いし、映画全体としても融和的に始まった関係が「まさかこんな事態に発展するなんて」という落差を一繋ぎの構成がより皮肉に際立てているように感じられた。
一方で脚本的には序盤の会合が終盤に攻撃的に責任転嫁し合う場面であまり効いてこないのが残念だった。最初から正しくなかった人たちが自滅するというある種当たり前の展開ではあるので、もう少し登場人物たちの価値観の中にグラデーションや揺らぎを描くことで後半の破綻に伏線や意外性を作れたように思う。

エミリー~拠り所を失い後戻りできなくなくなっていく愚かさ

ただし中心にいるエミリーは丁寧なキャラクターの描き込みがあって、彼女がアイデンティティクライシスに至る描写はとても良かった。
「白人至上主義時代の伝統的なアメリカ家庭像」を夢見るエミリーの旦那は本作の中でも比較的現実を冷静に認識しているまともな人物として描かれている。思い上がりから身を滅ぼしたエミリーの兄を見ていたからこそそうなったのかもしれないし、だからこそエミリーにとっては価値観のよりどころになるはずの最も身近な存在が理想的家庭像、ひいては白人至上主義を揺るがす存在として彼女を抑圧している。だからこそ彼女は自分を擁護してくれる人たちの提案する攻撃的な手段による自己承認の回復にすがりついていくし、自尊心を傷つける旦那に対しても「お前が弱い、お前が悪い」という論理で追い詰める。
「自分が悪い」と認められないことでどんどん後戻りできなくなっていくし、その先で状況が悪くなるとその「自分は悪くない」という理屈が味方同士の責任転嫁としてぶつかり合うのがどこまでも愚かしい。共通の敵を作って連帯することだけが拠り所だったエミリーは味方がいなくなって自分の正しさを証明する後ろ盾が無くなることも不安なので、仲間割れがエスカレートして見捨てられそうになると急にヘナヘナへりくだるのもダサい。しかもそこまでみっともない姿を見せてもまだ隙あらば場の主導権を取り返そうとするのが呆れる情けなさだった。

情報量が極端に限定される終盤のカオス

長回しでいうと異常な精神状態になっていくレイシストたちの余裕の無さを撮影がより際立てていて良かった。忍び込んだ家に家主が帰ってきて暴力的な展開になってからは誰が何しているのかよくわからないくらい撮影的にもカオティックな情報量になっていくのだけど、それだけ視野狭窄で冷静さを失っているというのが画面にも表れているようだった。「あいつらを追い詰めよう!」と言っているレイシストたちの方が明らかに追い詰められているし、それが撮影的にも表れている。
また車で死体を運び出す場面の不自然なカメラワークもラストまで見ると誰の目線の時間感覚を共有していたのかがわかるような仕掛けになっている。長回しだからこそどこかで不確定なことが起きるのではという緊張が持続するのも良かった。
ただラストに近づくにつれて映像的な情報量がほぼゼロに近いくらい真っ暗な場面が続くのが場面の見応えを大幅に目減りさせてしまっていてもったいなかった。「船で沈めるのではなく森に埋めよう」というやりとりで揉めていたのもうやむやになっているし、映っているもののよくわからなさも含めてノイズの方が大きい演出になってしまっているように思う。
ラストのオチもレイシストたちの愚かさを示す意味でも因果応報の予感を残して終わる意味は感じられるけれど、一方でその可能性があったという描写は無いので伏線的には弱い。暴力シーンのグラングランするような撮影では見せられる情報に限りがあり、「その時、別の人はこんなことをしていました」と恣意的に多角的な視点を切り取れない長回しの功罪を感じたりもした。

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