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2023年映画感想No.38:ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:VOLUME 3(原題『Guardians of the Galaxy Vol. 3』) ※ネタバレあり

キャラクターたちの物語の続きを見つめる誠実さ

シアタス調布にて鑑賞。字幕通常版。
とても誠実に各キャラクターのストーリーを前に進める完結編で、ジェームズ・ガンの登場人物たちへの優しい眼差しに映画を観ながらずっと感動していた。
これまでのガーディアンズという作品が虐げられ傷ついてきた者同士が同じ痛みや孤独を通じて他者との繋がりや良心、生の肯定を取り戻すまでを描いてきたのに対して、本作はそうやって築き上げた心の故郷から再びそれぞれの人生に一歩を踏み出すまでの話だったと思う。
「あなたは一人ではない」ということは本来自明だからこそ「仲間ができる」ということはゴールではなく、その先に続く物語を提示する。彼らだからこそ見つけられた仲間と共に、彼らだからこそのそれぞれの成長を描き出してみせるところがキャラクターを真の意味でシリーズから解放するラストになっていると同時に、ガーディアンズという作品が描いてきた家族観のアップデートとしても極めて誠実な落とし所だと感じた。
改めてSFという世界観が自然に内包している多様なデザインがそのまま映画のテーマそのものを象徴する構造的強度や、対する悪役側の価値観の設定などガーディアンズというシリーズが何を描き出してきたのかをとことん突き詰めた内容になっている点も本当に素晴らしかった。

"過去"をどう乗り越えるのか

仲間と共に前に進んだことで一時的に遠くなったトラウマや喪失といった"過去"からの攻撃によって物語が始まるように、常にガーディアンズの面々は「”過去”をどう乗り越えるのか」という問題と対峙しているように思う。終盤にクイルのセリフで「逃げていた」とあることからも逃げたり遠ざけたりすることができない、乗り越えるものとしてそれぞれの痛みや喪失が設定されている。そしてそれをかつて喪失した可能性や否定されてきた尊厳の回復によって取り戻していく物語がとても感動的だった。
生命体としてこれ以上なく不条理なルーツを持つロケットが、今際の際を彷徨いながら否定されてきたアイデンティティの中にある他者との繋がりを思い出していく。呪いの記憶は大切な存在や人生に見たかった希望の逆説でもあり、「生きたい」という願いが絶望に抗う後押しになっていくような描写が悲しくも胸を打つ。ロケットが牢屋の中で出会う実験動物たちの造形が倫理的に一線を越えた生物実験のグロテスクさをストレートに打ち出していて、彼らがけなげに信じている希望の先にある残酷さをより際立てている。
尊厳を奪われて生きてきたロケットが導く側=リーダーとして自分だけの役割を自覚する実験用アライグマを救い出すシーンは本当に感動的だった。俺はロケットラクーンであり、ガーディアンズ・オブ・ギャラクシーだと宣言することが自分が何者であるのかの自己決定権を取り戻したということの演出として本当に素晴らしい。『イップ・マン 外伝』などでも同様の名シーンがあるけれど、僕は登場人物が「I am what I am」ということを誇示する場面がとても好きだ。

自分が何者かを取り戻す登場人物たち

大切な人を失った経験から壊れかけているクイルが瀕死のロケットをなんとか救うことで人生の目的を取り戻していくのも良かった。同じ見た目の違う人物であるガモーラの存在がより彼の未練を複雑にしているわけだけど、ロケットを死なせたくない、という状況の中で人生の不可逆性と向き合えるようになっていくのが成長として美しい。目の前のガモーラは別の人物だと認め、残された可能性の中で前に進む選択をできるようになる。
父性を取り戻すドラックスも、そんな父的存在から自立してここではないどこかに一歩を踏み出せるようになるマンティスも、今いる場所でアイデンティティを書き換えたネビュラも、ヨンドゥから受け継いだ矢を扱えるようになるクラグリンも、ハイエボリューショナリーの支配から卒業して良心による自分の居場所を見つけるアダム・ウォーロックも、みんな「I am what I am」を更新したり取り戻したりする話と言える。
ハイエボリューショナリーのエゴイスティックな優生思想に対してある意味欠点を補い合うことで魅力として再提示してきたガーディアンズが真っ向から否定する展開もテーマとして素晴らしかった。完璧な生き物なんていないし、仮に完璧な生き物がいたとしてもその存在が完璧な世界を形作るわけではない。僕たちは共に生きることで世界をより良くできるのだということを「神」というある種究極のエゴイズムを否定することで示していくような終盤の展開が現実に投げかける理想論としてもとても正しいと思う。

互いの欠点を補い合うことを体現するガーディアンズたち

戦いの過程でもガーディアンズは何度も失敗する。一人では何も解決できないし、互いに助け合うことでピンチを乗り越えていく。それは単純に「各キャラクターをきちんと活躍させる」という脚本の基本構造と言ってしまえばそれまでなのだけど、共に戦うというガーディアンズの連帯に対して部下を捨て駒としか考えないハイエボリューショナリーが最後には孤立し敗北していくことを考えると本作の根幹に関わる強弱のロジックとして一貫した描かれ方になっている。
弱点があるお互いを助け合えるのが仲間であり、仲間とは常に自分以外の誰かであり、それこそが世界に他者が存在することの希望や可能性なのだと思う。自分にとって都合のいいことだけが存在する世界は誰かの犠牲や不幸がなければ成り立たない。そういう不条理の中で生きてきたネビュラやマンティス、ロケットが誰かを助けることの意味はとても重たい。誰だって変わることができるし、同時にあなたはそのままで美しいというメッセージとして存在を否定する存在との戦いが描かれる。

"過去"が美しく更新されたことを示すラスト

追いかけてくる過去に苦しんでいたロケットが最後にガーディアンズの美しい思い出によって過去を肯定的に更新できたということを『Come and Get Your Love』を流すことで示す演出には、シリーズを観てきた僕にとってもこれでガーディアンズという作品が決定的に過去になるんだなという寂しさと、同時にそれが僕にとっても同じように美しい思い出だったという多幸感で胸がいっぱいになってボロボロ泣いてしまった。
何より僕は一作目の『Come and Get Your Love』が流れるオープニングロールがオールタイムベスト級に好きなワンシーンなので、この曲から始まった様々な映画的記憶がドバドバとフラッシュバックして今でも曲を聴くだけで涙腺が大ピンチになってしまう。
大好きなガーディアンズがみんな幸せになってくれて良かった。ジェームズ・ガンありがとう。

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