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村上春樹作品『猫を棄てる』を読む② 父親も捕虜の試し切りをしたのか

 三島は、どうしても神風連をとり上げ、日本というものを見つめたいと云う。
 二年後の昭和43年(1968年)が明治百年にあたっていた当時、明治時代を“懐思”し、維新の頃へ“懐帰”する風潮があった。 三島はそれを織り込んで巧みなレトリックで神風連を語っている。 神風連取材中の三島の心は、『奔馬』の次巻『暁の寺』の取材で翌年(昭和42年)訪れるインドにも向いていた。

 三島はこの入熊直前、林房雄と対談している。
 神風連の変は「秕政(ひせい)を釐革(りかく) する(悪政を改革する)もの」と述べ、「これは実際行動にあらわれた一つの芸術理念でね、もし芸術理念が実際行動にあらわれれば、ここまでいくのがほんとう」、「神風連というものは目的のために手段を選ばないのではなくて、手段 = 目的、目的 = 手段、みんな神意のままだから、あらゆる政治運動における目的、手段のあいだの乖離というものはあり得ない。それは芸術における内容と形式と同じですね。僕は日本精神というもののいちばん原質的な、ある意味でファナティックな純粋実験はここだと思うのです。もう二度とこういう純粋実験はできないですよ」と、熱を入れて林房雄に語りかけている。(三島由紀夫と神風連 (壱)西法太郎 『三島由紀夫の総合研究』 (三島由紀夫研究会 メルマガ会報) 平成19(2007)年5月7日(月曜日)            通巻 第143号 より)

https://web.archive.org/web/20100131104816/https://melma.com/backnumber_149567_3656468/

 しかし三島由紀のこのロジックは、どこか奇妙なものである。何故なら、「秕政を釐革する」とは紛れもなく「我政府は止むを得す獨力以て朝鮮に勸むるに其秕政を釐革せんことを以てし朝鮮は已に之を肯諾したるも清國は終に陰に陽に百方術を盡して之を防碍し終に戰争の以て避くべからざる形勢に陷れしめたり」と伊藤博文の「日清交戰に就ての演説」に見られる言葉であり、そのまま「帝國ハ是ニ於テ朝鮮ニ勸ムルニ其ノ秕政ヲ釐革シ內ハ治安ノ基ヲ堅クシ外ハ獨立國ノ權義ヲ全クセムコトヲ以テシタルニ朝鮮ハ既ニ之ヲ肯諾シタルモ淸國ハ終始陰ニ居テ百方其ノ目的ヲ妨碍シ剰ヘ辭ヲ左右ニ托シ時機ヲ緩ニシ以テ其ノ水陸ノ兵備ヲ整ヘ一旦成ルヲ吿クルヤ直ニ其ノ力ヲ以テ其ノ欲望ヲ達セムトシ更ニ大兵ヲ韓土ニ派シ我艦ヲ韓海ニ要擊シ殆ト亡狀ヲ極メタリ」として「清国ニ対スル宣戦ノ詔勅」に容れられる言葉であり概念である。つまり明治政府がその帝国主義的性格を発揮する為に用いられた概念であり、方便であり、すでに言葉としてスポイルされてしまっているものだからだ。

七生報国

一死心堅

最期成効

含笑上船

 夏目漱石がこの広瀬中佐の遺詩を「已むを得ずして拙な詩を作つたと云ふ痕跡はなくつて、已むを得るにも拘らず俗な句を並べたといふ疑ひがある」と『艇長の遺書と中佐の詩』でわざわざ批判したのは、やはり「七生報国」という言葉がデッドコピーされて擦り切れてしまっていたからだろう。三島由紀夫は何故か時代を超克し、このスポイルされた理念とデッドコピーで擦り切れた幻想を引き受ける。

 いずれにせよ当時は、猫を棄てたりすることは、今に比べてはわりに当たり前の出来事であり、とくに世間からうしろ指を差[ママ]されるような行為ではなかった。(『猫を棄てる 父親について語る時』村上春樹)

 これは地域差こそあれ、ほぼ事実であろう。時代が変われば正義も変わる。

 無抵抗状態の捕虜を殺害することは、もちろん国際法に違反する非人道的な行為だが、当時の日本軍にとっては当たり前の発想であったようだ。(『猫を棄てる 父親について語る時』村上春樹)

 これもおおむね事実であろう。『坊ちゃん』が書かれた当時、松山には六千人ものロシア兵の捕虜がおり、割と自由に歩き回り、温泉にも入っていたという。しかし芥川龍之介の『将軍』にはこんなシーンもある。

「歩兵!」
 騎兵は――近づいたのを見れば曹長だった。それが二人の支那人を見ると、馬の歩みを緩めながら、傲然と彼に声をかけた。
「露探か? 露探だろう。おれにも、一人斬らせてくれ。」
 田口一等卒は苦笑した。
「何、二人とも上げます。」
「そうか? それは気前が好いな。」
 騎兵は身軽に馬を下りた。そうして支那人の後にまわると、腰の日本刀を抜き放した。その時また村の方から、勇しい馬蹄の響と共に、三人の将校が近づいて来た。騎兵はそれに頓着せず、まっ向こうに刀を振り上げた。が、まだその刀を下さない内に、三人の将校は悠々と、彼等の側へ通りかかった。軍司令官! 騎兵は田口一等卒と一しょに、馬上の将軍を見上げながら、正しい挙手の礼をした。
「露探だな。」
 将軍の眼には一瞬間、モノメニアの光が輝いた。
「斬れ! 斬れ!」
 騎兵は言下に刀をかざすと、一打に若い支那人を斬った。支那人の頭は躍るように、枯柳の根もとに転げ落ちた。血は見る見る黄ばんだ土に、大きい斑点を拡げ出した。
「よし。見事だ。」
 将軍は愉快そうに頷きながら、それなり馬を歩ませて行った。(『将軍』芥川龍之介)

 いずれにせよ当時は、猫を棄てたりすることは、今に比べてはわりに当たり前の出来事であり、無抵抗状態の捕虜を殺害することは、当時の日本軍にとっては当たり前の発想であったようだ。そのことに何も文句はない。誰でもが三島由紀夫のように時代錯誤でいられるわけではないのだ。

 時代が変わればあらゆることが変わる。昔は長男以外が養子にだされることも珍しいことではなく、岸田秀が指摘するように、近所のおじさんが父親らしいという環境も戦後まもなくでは珍しいことではなかった。その自分の父親が実は本当の父親ではないかもしれないという不安がやや唐突に表れたかに見える『1Q84』における天吾とNHKの集金人の関係、そして眩暈と共に現れる母親の下着と父親ではない男の幻想は、まさに父親を描くことの困難さがそのまま表れたかのような形で曖昧さだけを残した。『猫を棄てる 父親について語る時』において、村上春樹氏は、

 亡くなった父親のことはいつか、まとまったかたちで文章にしなくてはならないと、前々から思ってはいたのだが、なかなか取りかかれないまま歳月が過ぎていった。(『猫を棄てる 父親について語る時』村上春樹)

 と語るが、私が本当に解らないのはそこのところである。まとまったかたちの文章になっていないことに世界的に有名な大作家が気が付かないのだろうか。何か肝心なものをつかみ損ねている。ぎこちない会話と和解の証として回想される棄てられなかった猫のエピソードの素晴らしさに私はどうしても辿り着くことができない。ささやかな物事の限りない集積としての村上春樹氏が、時に猫殺しのジョニー・ウォーカーとして、時に南京大虐殺に加わった日本兵士として父親を置き換えざるを得なかったことは理解に難くない。では俳句の好きな父親の目にモノメニアの光はなかっただろうか。時には生徒を殴る父親は、本当に平和主義者だったのだろうか。いや、平和主義者とは一言も書かれてはいないものの、何かを曖昧にしたまま、あたかも戦争の犠牲者の一人のように書かれてはいまいか。

 より具体的に言えば父親が捕虜の試し切りをしたのかどうか曖昧にするなら、父親のいた軍隊の記録は余計であり、松の木に上った子猫に対する父親の関与が見えないことから、猫を棄てることと併せて性格のイメージが掴めない。これを全部時代で片付けられるものでもなかろう。三島由紀夫は取材で熊本に入る前に、三日間奈良の大神(おおみわ)神社に参篭し、そこの滝にうたれ、宮司から「古神道」の話を聞いている。その生真面目さに比べれば、書かれている範囲からはどうも俳句的な気楽さが見えるといっても良いだろうか。そういう意味ではまさに父親譲りのエッセイではあるけれど。








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