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毒親との和解(後編)。ー"毒親育ち"のその先へ

私はきっと正しくない方法で、毒親育ちの過去を克服した。元恋人・Kとの歪んだ関係性のなかで、母親の立場を理解したのだった。

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私もKもお互いに被害者で加害者だった。物事のA面/B面を両方見るというごく安易な方法で私は、自分が被害者であることを乗り越えた。それがたとえ、新しい傷で古い傷を塗り替えただけだとしても。

Kと別れてしばらくして、私は毒親と和解した。

毒親との和解


親とは3年ほど連絡を取っていなかった。祖母の葬式にも行かないつもりだった。父親は私を死んだものだとばかり思っていたという。「話をしたい」と伝えたとき、電話口で母親は泣いていた。3年の月日で変わったのは、私だけではなかった。

子どもの頃に"女"で"子供"だからという理由で差別され続けて辛かったこと、母親の望むように立派に生きなければいけなかったこと、母親と祖母から二次加害を受け続けて病気が悪化したこと、今でも人と信頼関係を築くのが難しいこと、私には私の生きたい人生があること、"女"の私を介護用員だと思うのはこの先もやめてほしいこと…など、書ききれないほど要求した。

だけど本来の願いはシンプルで、私をひとりの人間として尊重してほしい、それだけだった。

母親はこう言った。

「そうできるように頑張りたいが、たぶん私にはできない。私は娘のあなたの望むことがよくわからない。」

…そんなことはもう、わかっていた。あなたはただの不完全なひとりの人間で、私が求めていた"お母さん"は、あなたではない。

私は私自身の力で、愛されたかった子供時代を乗り越えるしかないのだ。私自身の力で、この人生を生きるしかないのだ。そう思える程度には、私は回復していた。

ほとんど耳の聞こえない祖母は、そばでニコニコと笑っていた。

「○○ちゃんが帰ってきてくれて、賑やかでうれしいねぇ」と。

「和解」とは、毒親を許すことではない


現在は定期的に、実家に帰ることにしている。親とは一緒に食事をしたり、買い物に行ったりもする。

だけど仲良くなったわけではない。親との間に目に見えない、超えられない境界線を引けるようになっただけだ。

私は和解を、親を許すことではないと思っている。むしろ、

・親と自分との間に明確な境界線を引くこと
・親も自分も"不完全なひとりの人間"として捉えること

上記2点ができるようになることを和解だと思う。できないことは「できない」と、明確に伝えられるようになることだ。

それにはまず、自分の境界線に気づくことが必要だった。Kといういわば"もうひとりの私"を通して、私は自分の境界線に気付き、その輪郭を知った。


"今"を生きる、私を生きる


もしも理解してくれていれば、寄り添ってくれていたら、私は複雑性PTSDにはならなかった。若い時期の約10年間をひきこもりと非正規労働の繰り返しで、棒に振ることもなかった。

たくさんの「たら」と「れば」がある。

数年前、解毒中は恨みと憎しみと怒りばかりをまき散らして生きていた。周りはさぞ迷惑だったと思う。苦しかったけれど、あれも通らなければいけない道だった。今はそう思う。

私はつい最近、普通自動車免許を取った。クルマを買うお金がないので、実家のクルマで少しずつ運転の練習をしている。

春になったら大学院に進学する。奨学金をもらえることになったので、実家で暮らすことはない。だけど卒業したら地元に帰るかもしれない。

どちらも自分自身で決めたことだ。
そこに親の意志はない。

親は私に、医師になった弟のような立派な人間になってほしかったかもしれない。その上、老後の面倒まで見てくれる優しい女の子に育ってほしかったかもしれない。

でも私には、親の希望を叶えなければいけない義務はないのだ。というより、そんな義務は最初からなかった。親が病気の私に寄り添えなかったのと同じように。

30代(元)ひきこもり、独身、一人暮らし。

人より随分遅くなったけれど、私は自分自身の人生を生きている。困難と希望だらけの、うまくいかない毎日を。

毒親育ちの人生の、その先を生きている。

(おわり)

※この記事は毒親との和解を推奨するものではありません。

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