見出し画像

特別公開 増上寺三解脱門:3

承前

 釈迦三尊の両脇を固めるのは、お釈迦さまの高弟・十六羅漢の面々と《歴代上人坐像》。いずれも極彩色の像で、薄暗い堂内でもよく目立つ。各像が密に並ぶさまは壮観であった。
 十六羅漢像は等身大といえそうな大きさで、キャラクター的な造形性をみせるのに対し、上人像は写実的。増上寺を支えた高僧たちの肖像彫刻であり、顔つきはそれぞれに異なっている。
 上人像は、羅漢像よりもふたまわりほど小さめにつくられている。羅漢さまと同じ大きさには、さすがにできなかったのだろう。
 幼児くらいのサイズでかわいらしいけども、どこか周囲をしんとさせるような、峻厳なオーラを放つお像だった。

十六羅漢は順番に、左右交互に振り分けられている
彩色がよく残存。常に拝観可能な状況であれば、こうは残らなかったのでは。扉を開け放てば、かつては海風の影響をもろに受けたとも思われる。なお前回2011年の公開が、戦後初の公開であった。今回が2回め
♪伊代はまだ 十六羅漢~~

 近年……といってもここ10年ほどであるが、増上寺が世間の耳目を集めたことといえば、幕末の絵師・狩野一信による大作《五百羅漢図》の公開であった。
 巨大な掛幅の各図に5名ずつ、全100幅からなる《五百羅漢図》。画風は極密で奇っ怪でユーモラスで……圧倒というほかない。
 増上寺で長く秘蔵されたのち、本作がようやく陽の目をみた……というか「ブレイク」とでもいえそうなくらい一気に、爆発的に認知度を挙げたのは、やはり江戸東京博物館での一挙展示だったかと思う。2011年のことだった。

 この展覧会のあと、増上寺に宝物展示室がオープン、《五百羅漢図》から10幅ほどが常時展示されている。今回は、第71幅~80幅の10 幅が出ていた。
 全体の10分の1を観るだけでも、たいそうなエネルギーを要するものだ。エネルギーを、むしろ吸われているような気さえしてくる。
 一信はこの制作に没頭するあまり、神経衰弱に陥った。己が身を削って一幅一幅仕上げられた、執念の作である。

 さて、一信がこの《五百羅漢図》を描くにあたって、三解脱門の《十六羅漢像》をどれほど参考にしたかは、じつはよくわかっていない。観たかどうかすら、不詳である。
 ただ、本作が当初から増上寺の子院との関係性のなかで、この芝のあたりで制作されていること、一信が先行する五百羅漢図の作例を熱心に取材していたことが、すでに知られている。それに一信は羅漢図をほかにいくつも残しており、羅漢図というモチーフに、ことのほかこだわりがあった。
 やはり、観ていたと考えるほうが自然なのではと思う。三解脱門に登楼して、あの極彩色の群像に視界を支配されてみて、なおのことそう思ったのであった。
 (つづく

 
 ※先日、別件で成田山新勝寺へうかがい、安政5年(1858)建立の釈迦堂外壁面にある、一信の下絵・松本良山の彫刻による浮彫の《五百羅漢図》を拝見する機会があった。一信の無茶振りに丁々発止で応える良山のすごさが、むしろ印象的に映った。名コンビだったらしく、良山作の一信像が増上寺に残っている

現在は「釈迦堂」というこのお堂は、先代の本堂。この先代、先々代も、成田山内に現存している

 ※日本における五百羅漢図の作例として最もよく知られるのが、室町の画僧・吉山明兆筆のもの。3月に東京国立博物館で開幕する「特別展  東福寺」では、現存する47幅が一堂に会する。一信もこれを観たかは……やはりわかっていない



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?