山縣有朋のお庭訪問@九段
季節はずれの話題で恐縮だが、昨年11月末、紅葉狩りに行ってきた。
毎年、紅葉のシーズンを迎えると、かつての江戸城こと皇居内の「乾通り」が、下々にまで開放される。
訪問時、木々の色づきはまだまだだったけれど、こうして、やってくるだけでも気分はよい。人びとはみな浮かれていると同時に、皇居にお邪魔するなりの控えめさもちょっぴり漂わせている。
こういった、この機会ならではの雰囲気が、なんとなくいいのだ。
二重橋近くの坂下門から、竹橋あたりの乾門へ。近美の工芸館が入っていた赤レンガの洋館前に出た。
そこからさらに歩いて、紅葉を楽しめるもうひとつの特別公開へ。靖国神社近くの、山縣有朋邸の庭園跡だ。
皇居の話を枕にすると、当の有朋は怒ってしまいそうなものだが……今回の主役は有朋のほうである。
有朋の庭は、農林水産省が管理する「三番町共用会議所」の中にある。
有朋が第3代の農商務大臣に就任したのち、この地は農商務大臣の官舎として買い上げられ、以後歴代の大臣たちにより使用、現在も農水省に引き継がれている。
こういった施設があり、毎年秋の数日間のみ公開されていることを知ったのは、つい1か月ほど前の話。Googleマップを見ていて、たまたま気づいた。それからときおりホームページを開いて、今年の詳細が出るのを待っていたのだった。
有朋といえば、普請道楽で知られた御大尽。東京に椿山荘、小田原に古稀庵、京都に無鄰菴といった旧邸がそれぞれ現存している。九段のこちらは初めて。
靖国神社の高台から東方向には九段の急坂があり、九段下や神保町へと至る。南方向に目を転じると、千鳥ヶ淵や麹町・半蔵門方面にだらだらと下り坂が続いていく。
本庭園は、それらふたつの坂の中間に位置しており、地形の起伏をたくみに利用している。
北側の最も高い位置に会議所(有朋当時は片山東熊設計の洋館)が設けられ、建物に面する芝生には、けっこうな傾斜がついている。
芝生が終わるあたりから急斜面となり、石組みの狭間から数段の滝が豪快に落ち、谷底の池へと流れ込んでいく。
こういったさまを、屋敷からは手に取るように「高みの見物」し放題。紅葉もよかったけれど、夏は涼しげでさらによいのではと思われた。
この庭園は有朋当時のまま……と、いいたいところだが、庭園の構成要素がすべてそのままか、あるいは後年に農商務省の官舎となってから手が入ったものかは不明という。
ただ、有朋が作庭に関わった早い時期の例であり、後年の「植治(うえじ)」こと小川治兵衛による京都・無鄰菴とは雰囲気が異なっているのは確かだった。
そんななか、有朋の足跡を確実に示すのが、有朋みずから建立した石碑。
明治18年(1885)10月19日、竣工したばかりの有朋邸に明治天皇の行幸を仰いだことを記念する碑で、行幸の翌月にさっそく建立されている。
碑文には、このとき有朋から「来国光の刀と吉田松陰の書幅を献上した」とある。
有朋は松下村塾に学び、奇兵隊でならした元・維新志士。武士の魂たる日本刀と、松陰先生の書……有朋にできる最上級のおもてなしであろうが、贈られた明治天皇が喜んだかは、果たしてわからない。
ちなみにこの来国光の刀は、現在は九州国立博物館に所蔵されている(国宝)。
——こういった歴史をもつ場所が、山手線の内側にひっそり残されていることに、改めて驚かされる。
東京は、まだまだ広いなぁ。
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