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古塔と火炎:3

承前

 谷中天王寺五重塔の焼失は、新たな芸術の誕生にも関わった。

 生み手となったその男は、シベリア抑留から復員後、鶯谷のネオンサインエ場で働きながら画作に励んでいた。前年には銀座で初の個展を開催、大きな賞を獲得して飛ぶ鳥を落とす勢いの、まさに日本画界のホープ……彼の名は、横山操。
 五重塔焼失を知った操は、職場から目と鼻の先の現地へおっとり刀で駆けつけ、焼け落ちた五重塔を前に、我を忘れて筆を走らせた。
 仕上がった作品が、高さ3メートル超の大作《塔》(東京国立近代美術館)だ。

 操がそのとき見た塔は、まだかろうじて塔の姿を保っていた。
 画面の上端まで垂直に貫かれた図太い墨――心柱が、依然としてすっくと立っていたためである。立っているとはいっても、外装は落ちてむきだしの状態。梁はいまにも落下しそう。骸(むくろ)のような、ぎりぎりの姿である。
 当初、極太の黒に目を奪われていた鑑賞者の意識は、まもなく画面の下部、塔の初層へと移っていく。
 初層は被害が比較的軽微であったようで、崩れかかった瓦屋根と梁の丹塗りが見える。画面上に安定感をもたらしているのはこの初層だといえるが、健在であった数時間前の面影をより直截的にしのばせて、余計に生々しい表現になっているともとれよう。
 操は、黒と赤の画家。根来盆の手擦れ跡に似たひと刷けの朱は、黒主体で組み立てた画面を締める欠かせない「隠し味」となっている。

 横山操は戦後美術史を語るうえで欠かせない「日本画家」だが、同時に「日本画」の概念をややこしくしている張本人ともいえる。
 大画面いっぱいに爆発的な力がぶちまけられた、ひたすらに激しいスケールの大きさが、青龍社時代の操の真骨頂である。屏風に、噴火する桜島を描く。溶鉱炉を描く。グランドキャニオンを描く。画題の選択からして、すでに破格。世間一般的な「日本画」イメージのもつ穏健さは、跡形もない。
 いっぽうで後年、青龍社を退いてからは大作主義は鳴りを潜め、画題には日本の自然や山里が選ばれた。なかでも得意としたのは、富士山の絵。富士山そのものと同様、もはや爆発的ではないが、大きな力を内に秘め、蓄えこんでいるような絵だ。酒浸りのままそんな絵を描いて、53歳で亡くなった。

 わたしは青龍社時代の作品をより好んでいる。《塔》も、この時期の代表作だ。
 しかしながら、どんなに言葉を並べたてたところで、青龍社時代の破格の大画面作品ほど、実物に触れなければ感じえないものが多すぎる作品もないのではないか。
 折りしも今年は、横山操生誕100年のメモリアルイヤー。出身地・新潟県の新潟市新津美術館では1月から3月にかけて大回顧展が開催されていた。

 新潟まで馳せ参じようかと最後まで迷ったのだが、横山操ほどの大家のメモリアルイヤーとなれば、地元とはいえ北陸のみの開催で済むはずがない……予測は美術雑誌の速報で裏づけられた。今秋、平塚市美術館に巡回とのこと。こうしてわたしは新潟行を思いとどまった。
 以来、手帳に記入して指折り楽しみにしていたのだが、先日、改めて平塚市美術館の年間スケジュールを確認しても横山操展の名前はなく……調べなおしたところ、平塚への巡回は、春先に立ち消えになってしまったようだ。
 ほんとうに残念だった。あのとき新潟に行っておけば……悔やまれるばかり。

 厳冬の越後一人旅。
 横山操に、良寛さんと火焔土器、それに五智国分寺の三重塔をからめてもよかったな……などと、ここにきて、これは「塔」の話だったと思い出す。


 幸田露伴の『五重塔』を生んだ、谷中天王寺。その五重塔の焼失がもたらした波紋は法輪寺三重塔の再建につながり、旧寛永寺五重塔が珍妙な形で保存される契機となり、横山操の畢生の作《塔》を生むまでに至った。
 この五重塔、2000年代に入ってから、一時は再建計画も出たそうだ。
 あのだだっ広い谷中霊園に高層の五重塔ができたらさぞ壮観だろうが、同時に、その赤く燃えさかる姿を想像してしまいそうで、因果なものである。
 もっとも、計画は実らず、礎石が残るのみ。杞憂に終わっている。(おわり)


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