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岩手県立美術館のコレクション展:4 松本竣介

承前

 松本竣介(1912〜48)の記念室。
 盛岡で、いちばん来たかった場所はここだった。
 館蔵の油彩27点が出品。隣の萬鐵五郎記念室と同じく、制作年に沿って、郷土の画家の全貌を素描する。
 竣介の作品が常設でたくさん観られるのは、全国でもここだけだ。

松本竣介記念室

 生誕100年の折に出版された『松本竣介 線と言葉』(2012年  平凡社)。図版の色がよく、全図や拡大図とともに載る言葉の選択に、デザインもよい。お気に入りの1冊である。

 この本では、岩手県立美術館の元館長・原田光先生が解説を書かれており、掲載作品には岩手県美の所蔵品が多い。
 今回の訪問は、穴が開くほど観た図版の元の作品に触れられる好機でもある。いくつか、ざっくばらんにご紹介したい。

《自画像》(1941年)

 
 1936年頃に描かれた、3つの絵。

《有楽町駅附近》(1936年)
《建物》(1936年頃)
《赤い建物》(1936年)

 いずれも、極太の描線を枠組みとして、大胆に構築された作品である。ジョルジュ・ルオーからの影響がもろにうかがえるが、これら初期作の堅牢な画面づくりは、その後もずっと引き継がれる竣介作品の際立った特徴。粗い土壁にも似た質感・風合いが美しい。
 1936年は、竣介にとって記念すべきことの多い年であった。
 佐藤俊介が婿入りして「松本俊介」となり、終の住処・下落合に自宅とアトリエを構えた(「竣介」と名乗るのはさらに後)。アトリエを「綜合工房」と呼びはじめ、編集者であった妻・禎子とともに同人誌『雑記帳』を創刊したのもこの年。転換期となった重要な時期の作品たちである。

 息子・莞が生まれた年の作《序説》(1939年)は、浮かんでは消えていく、都会のなかのさまざまな人びと、もの、たてものを群像として描きだした一連の作のひとつ。《》(1938年  大川美術館)がよく知られるけれど、こちらも名作。100号の大作だ。
 くすんだマリンブルーの深みのなかに、取り込まれてしまいそう。

女性の横顔。妻・禎子という
カルマン渦に似たひゅるひゅる。煙突から立ち昇る煙だろうか。遊ぶような筆遣い
茫洋とした花。注口・手つきの壺に生けられている

 作品解説に引用されていた、竣介の言葉が印象深い。

たとえば空襲でやられて断片だけが残ったとしても、その断片から美しい全体を想像してもらいたいのだ

 この作品について直接語った言葉ではないにせよ、多種多様な「断片」が寄り集まり、とけあっている——そんな「全体」を観ていると、竣介は言葉のとおりの理想を、こうして高度に実現しえたのだなと、しみじみ感じ入ってしまうのであった。

 同じ都会でありながら、うら寂しさの漂う《議事堂のある風景》(1942年)。

舗装のないぬかるんだ道。轍が荒っぽい渇筆で一気に描かれる
ずざざっ。静謐な画面のなかに、こんなにも速度を感じさせる描写が存在していたことに気づいて、はっとさせられた

 古い日本映画に出てくるかつての東京の街は、こんなふうにガランとしている。
 空が広い。競うように天を目指してどこにでも生えてくる、醜いビルの群れはまだなく、議事堂や煙突といったかぎられた高層の構造物だけが、目立つべくして目立っている。
 色の階調としては、たしかに暗い。描かれたのは、戦時中の真っ只中でもある。
 しかし、竣介のこの手の風景画には、昔みた夢のなかに、いつのまにか迷いこんだような、どこか懐かしい浮遊感を喚起するところがあるのではと、わたしは感じるのだ。《議事堂のある風景》はその最たるもので、どうしてか、あたたかい。

 ——いつまでも眺めていられる。どこにピントを合わせても、新しい発見がある。
 松本竣介の描く絵は、そういった絵だ。

 他にも、竣介の魅力的な絵はいくつもあったけれど、ガラスの映り込みなどで上手く撮れなかったこともあって、写真としては残していない。
 でも……どんなにきれいに写したって、逆に1枚も写せなくたって、いちばん大事なのは「心に映す」こと。
 じっくり、しっかり拝見できたから、その点は抜かりなかった。
 心の泉に新たな水を蓄える、すばらしき休日に万歳。松本竣介に、乾杯。


竣介の盟友で、二人展なども開いた舟越保武。竣介と同じ部屋、壁で仕切られた向こう側に、彼の記念室がある


2階の展示室を降りる階段の手前から、岩手山
美術館のある大きな公園の向こうに、岩手山
朝は雲に隠れていた岩手山。帰りは、姿を見せてくれた



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