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版画の青春 小野忠重と版画運動:2 /町田市立国際版画美術館

承前

 藤牧義夫の作品は、版画・ポスターを合わせて23点。新版画集団の活動を順に追う全体の構成に沿って、年代ごとに登場した。

 機関誌『新版画』には、会員たちの版画が貼り込まれている。
 4号に収録の《御徒町駅の付近で  東京夜曲A》(1932年  神奈川県立近代美術館)。所蔵先のデータベースはなぜかモノクロ画像のみだが、緑系統に彩色されている(以下は参考画像)。

 国鉄の高架下をくぐっていく、路面電車。架線が「バチン!」とスパークするその瞬間を描く。

 アメ横が表通りに突き当たる、御徒町駅の北口であろう。上野広小路と川向こうの本所一丁目を結ぶ厩橋(うまやばし)線の電停が、ここにはあった(同じルートが都営大江戸線に引き継がれている)。
 電線のスパークは、近隣や沿線の人にとってはありふれた、気にも留めない光景であったはず。
 しかし、ほんの一瞬だけ周囲の暗闇を妖しく染め上げ、鉄の構造物の陰影を浮き立たせるこの現象が、義夫の詩心を確かに打ったのであった。

 『新版画』13号収録の《びょうぶ坂》(1934年  神奈川県立近代美術館)。
 描線をそのまま活かせる石版画(リトグラフ)の技法的特徴に合わせた、ペン画調のラフな作品となっている。彫刻刀で刻みつける木版画とも、面相筆でスーッと引いていく白描画とも異なる、きびきびとした描線が小気味よい。
 時代はズレてしまうが、構図といい、松本竣介のデッサン《大崎陸橋 A》(1941年)、《大崎陸橋 B》(1946年  いずれも東京都現代美術館蔵)を思わせる。

松本竣介《大崎陸橋 B》(所蔵館のコレクション展で撮影)

 びょうぶ坂は、上野のお山の東側にかつてあった坂(参考ページ)。橋を渡れば、義夫の下宿先までは目と鼻の先である。つまり《御徒町駅の付近で》よりもさらに近所の景色を描いていることになる。

 義夫の行動範囲と作品のモチーフとなった場所は、皇居からみて北東側に集中している。
 自宅や縁者の家があった上野、浅草、隅田川周辺。新版画集団の拠点が置かれていた小野忠重宅は、隅田川近くの本所にあった。神田や銀座では出品した展覧会が催され、一時期勤務していたデザイン事務所は銀座の数寄屋橋交差点の真ん前であった。
 義夫が手がけた《新版画集団第2回展ポスター》(1933年  小野忠重版画館)。こちらの会場は、神田の三省堂とある。

 チンドン屋のような人物が右手にメガホンを掲げ、左手で空を指差す。その先に「新版画集団第2回展」と書かれたアドバルーンが揚がっている。
 義夫の行動範囲には、銀座や上野、浅草といった都会・繁華街が含まれる。人の集まるところ、アドバルーンあり……とはいえ、義夫がアドバルーンを絵にしている例はとても多い。
 気に入ったモチーフを繰り返し描く傾向が、義夫には強いようだ。アドバルーンの他にも、鉄道の高架、鉄橋などが、その例として挙げられる。

《朝(アドバルーン)》(1932年  東京国立近代美術館=所蔵館のコレクション展で撮影)
浅草方面の空に「建設の人々(?)」とのアドバルーンが。《隅田川両岸画巻 No.3》より、部分(1934年  東京都現代美術館=所蔵館のコレクション展で撮影)

 当時の浅草六区・盛り場の中心にいたのが、「喜劇王」エノケンこと榎本健一。
 義夫は、エノケンを描いている。《ENOKEN之図》(1934年  町田市立国際版画美術館)だ。写真と並べてみたい。

 彫刻刀を走らせる勢いをまったく落とすことなく、一気に彫りあげられたとおぼしいながら、じつによく、エノケンの特徴が捉えられているのがわかる。
 そして、パーツ単位で上手く写し取るというよりは、内面にまで切り込んでいくかのような、確信に満ちた表現でもある。
 為書きの「畦地兄」とは、先輩の版画家・畦地梅太郎のこと。9つ下の若者のこの力量に、舌を巻いたことだろう。

 《ENOKEN之図》と同様、きわめて勢いよく、しかし確信をもって刻みつけられた線に天才性を感じさせる作品が《つき》(『新版画』12号収録  1934年  神奈川県立近代美術館)。

上のアクリルがくすんでおり、手前のアクリルからのほうがきれいに撮れた

 観れば観るほどふしぎな絵であるが、同時に、こんなふうに月が見えたことが、わたしにもあったような気がしてきた。
 月をじっと眺めていると、光に目がやられて、ぼやけて見える。そのとき、こういった複雑な反射をする光源として、月は瞳に映るのではないかと思うのだ。

 《つき》は、昭和9年(1934)6月の新版画集団第4回展に出品。傑作《赤陽》も同じ会場に並んだ。同年9月には、もうひとつの代表作《隅田川絵巻》に着手。

 このように、この時期の義夫の制作は目をみはる充実ぶりをみせているが、翌年9月、義夫はいっさいの消息を絶ち、現在に至るまで見つかっていない。(つづく


町田市立国際版画美術館の中庭。このあと、中央の水たまりで、カラスが行水していた


 ※のちに「山男」で名をなす畦地は町田市に長く在住し、名誉市民に。畦地の作品や、本作を含む所蔵品の寄贈を受けたことが、町田市立国際版画美術館の設立由来ともなっている。


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