ポコラート世界展 偶然と、必然と、:2 /アーツ千代田3331
(承前)
今回は、出品作家のなかから2人をご紹介。
■割り箸を挿す人 武田拓(ひらく)
割り箸を、挿して挿して挿しまくる。
その行為を飽かず反復することで、見上げるほどにうず高く積みあがった割り箸の「群れ」ができた。
「群れ」は不定形で、なんらかの具体的なかたちを目指したものではなく、規則性や技巧といったものもここには存在しない。
崩壊しないこと――そんなたったひとつの制約の範囲内で、単純な行為が繰り返された結果として、この巨大な「群れ」が生み出されたというわけだ。
割り箸の「群れ」を観ていると、崩れるとか倒れるとかいったバランスの心配よりも、あるはずもない新たな動きの予感のほうがまさった。
この群れはミリ単位で動いていて、いまにも身をよじりだすのでは。籠からさらに生成され、もっと伸びていくのでは……などといったことが、杞憂とわかっていながら頭をもたげるのだ。
美か醜か、わからないけれど……とにかく、「すごいモノを観たぞ」という感覚が残った。そういう意味で、わたしのなかでは本展での鑑賞体験を象徴する作だったと思う。
■静謐・モダン・デカダンの気 舛次崇(しゅうじたかし)
平面・立体・インスタレーションとさまざまな形態の作が並ぶなかで、純粋に一枚の絵として最も惹かれたのは、舛次崇さんの作品だった。
こちらのページにいくつか作品が掲載されているので、まずはその絵を、人となりとともに知ってほしい。
わたしはキャプションによってこれらの知識を得る以前、彼の絵が目に入ってきたその時点で、「いい絵だな」と直観したのだった。
モチーフは大きく、色数を絞って配置されている。メリハリのある画面づかいで、モダーンな印象。ホワイトキューブの展示室の空間にも、よくマッチしていた。
ジョルジョ・モランディに似た、水を打った静謐さがあると思った。同時に、やや気だるく、退廃的な空気も。
「素人」というと語弊があるが、それに近い人びとの作品を観に来たつもりでいたのに。この重厚味、落ち着き払ったところには、老獪さすら感じるではないか。じんと染み入って、徐々に効いてくるような……まるで、海千山千の老大家の作である。
ご本人の背負った困難のエピソードは、鑑賞という行為にも少なからず影を落とすものだけれども、その文脈を脇に置いても十分に通用する、力のあるものと感じた。いろいろな枠組みから外して、アートとして評価の俎上に載せてみたい。かえすがえすも、急逝が惜しまれる。
今回の展示作は3点。まとめて作品が拝見できる機会が今後もしあれば、ぜひうかがってみたいものだ。(つづく)
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