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完璧な生き方を求めて。幸せのボトムアップがもたらしたものは幸せだったのか?

跳び箱のことを考えていました。
6段飛べて凄い凄いと言われていたら、周りも6段飛べるようになり
7段8段とトライし、
私は10段までしか飛べませんでした。

11段飛べる子もいたのに、私は飛べませんでした。

私にとって跳び箱は
「10段しか飛べない」になりました。

そんな、もう30年近く前のことを
ぼんやりと考えていました。

どうもこぶたです。

最速な彼、速くない僕

そんなことを思い出したのは子どもがこんな話をしていたからでした。


「Aくんはいつも1番だったんだけど、今回はマラソン大会で2番だったの。
僕は足が速くないから、2番なんて凄いなと思うのにさ、
Aくんは2番で嬉しくないって怒って泣いたんだ。」

「キミの目標は走りきることだから、目標を達成できたことはすごいことだよ。
Aくんの目標は1番になることなんだね。だから悔しかったんだ。

足の速い人は大変だなと思うよ。
1番を取り続けるって自分との闘いだからさ、大変だよきっととても。

キミはさ、2番が十分すごいってことを
ちゃんと知ってるもんね。

だから、Aくんに凄いなって言ってあげれるんだよ。
それは足が速くない人が持つ価値だよ。

足の速い人の“すごい”を見つけてあげられるから。」

私も足が遅く、いつも下から数えて5番以内をウロウロしていたタイプです。

同じレースを走っていても、人にはそれぞれの目標と
それぞれのレースがあり、同じレース上にいても
闘うべきもの競うべきものは違っています。

笑顔を願っただけなのに

キャラ弁、今は当たり前に作れなくちゃいけないような雰囲気をなんとなく感じます。

昭和の終わり、平成の初め頃、母のつくる幼稚園のお弁当は、
おにぎりがハムや薄焼き卵の着物を着たお雛様になっていたり
卵がお花になっていて
今で言うところのキャラ弁のようになっていました。

さすがに中学高校のお弁当はそうはなっていませんでしたが
私のお弁当のハードルは
母のつくるあのお弁当が「普通」として位置づけられています。

私にはあの器用さはなく、
子どものお弁当はせいぜいキャラクターかまぼこを入れたり
ピックをさすのが限界値で

キャラ弁が主流の今、子どもにキャラ弁はおろか、
あの母のつくるレベルのお弁当が作れない私は
完全に“負け”というレッテルを自分に貼ってしまうのでした。


とても素敵だから、子どものために子どもの喜ぶ顔が見たくて
ちょっとがんばってやってみる!
という人が増え、
みんながやり出したらその頑張りが普通になってしまい
そのうちそれが、当たり前に求められるスキルになってしまう。

できない人は、「なんでママは作ってくれないの?」と泣かれ
そんな自分に涙する人も
いるのでは無いでしょうか?

幸い、我が子は私がキャラ弁を作れないことに
納得してくれていますが、やはりキャラ弁を作ったら
きっと喜ぶんだろうなとは、思います。

そしてその感情は、私自身に
劣等感を植え付けていくのでした。

社会の当たり前がハイレベルになって行くのは
誰かの笑顔が見たいから…だったはずなのにね。

努力を誰かが褒めた時

たとえばSNSに
「私がんばった!」「こんなことをした」と何かをポストしたとします。

それを誰かが褒めた時、
褒めと同時に、

「そこまでは努力しなければならない」
「それが素晴らしいの基準」

になってしまう現象をたまに目にします。

母親神話などはこの類で、
こうして誰かに対する賞賛が、ステレオタイプを作り上げ
基準を定めてしまうのかもしれません。

幸せのボトムアップ


大学進学だってそうでしょう。

かつては一部の、努力とラッキーを兼ね備えた人だけが行くことができたから
「大卒は凄い」と言われていました。

中卒は金の卵だったはずなのに、中卒で苦労した人々は
子どもたちに「高校くらいは出ておけ」というようになり、
今はほとんどの人が、子どもの学費は大卒までと考えているのではないでしょうか?

そしてそれを工面できない人や、
大変な思いをするなら自分にお金を使おうかなという考えにシフトチェンジした人は
子どもを持たない、結婚をしない生活を選ぶようになって行ったのかも知れません。


みんなが“がんばって”上を目指した結果、
その頑張りが普通になってしまったのです。

こうして、当たり前が幸せをボトムアップさせて行くのでした。

発達障害が増えるのは?

なんのエビデンスもない、肌感でしかありませんが

“それら”が当たり前になったことで
生きることのハードルは格段に上がりました。

その跳び箱を越えられない人たちが、不適応を起こすようになりました。

跳び箱は時間の経過と共にどんどんと積み上げられていきます。
当たり前の基準はどんどんハードルを上げていきます。
どんどんと超えられない人は増えていきます。


反応性愛着障害の増加も、そうした歪みが起因しているのかも知れません。

(反応性愛着障害は発達障害に非常に良く似た症状で
後天性の発達障害と呼ぶ人もいる。)

これまでは
単なる個性と見られて
自分に合った生業しながら生きてきた人々が
どんどんと狭くなる社会の“当たり前”の門をくぐれなくなっていき、
そこから溢れ、
障害と言われていくようになってしまったのでしょう。

生きづらさを抱え貧困(経済に限らない)に陥り、

それが自己に向いた時に一部は自殺や自虐に走り、
他に向いた時、一部は虐待や殺人や事件に及ぶようになっていったかもしれません。

一部はそれでも食らいつこうと、蜘蛛の糸目掛けて必死に手を伸ばします。

そして残りの人々は沼の中から力なく天を仰ぐのでした。

少子化や結婚離れの話

多くの人が「完璧じゃなきゃ結婚できない!恋愛できない!」と
思いすぎて、
実際に社会全体がそうなってきたなと感じます。

元々は恋愛も結婚も
完璧ではない個人を補うために行う、コミュニティ形成なのではないでしょうか?

完璧じゃなきゃ愛されない
ハードル高さでは、結婚も恋愛も、
「なら、いらないかな」
と、なるなと思います。

こうした幸せのボトムアップの傾向は、インターネットやSNSの普及に伴い
爆速で進んだように感じます。

繋がりやすく、情報が入りやすくなったことで
当たり前を作る速度が増したのかもしれません。

ピラミッドの頂点に立つ超人だけが生き残り、
下位の人々がどんどん社会から振り落とされていく先は
いったいどんな世界となるのでしょうね?

でもいつか、振り落とされる人の数が生き残る人の数を超えた時、
世界はひっくり返るのだろうなと
ぼんやりと社会の外の、振り落とされた世界から
中を眺め続けています。

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