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No.33 「論理的」だけでは生きていけない

おはようございます。

chakoです。

「論理的である」ことより「握手できる」ことほうが大事。
「論理的である」ということは、握手するための有力な一つの手段でしかない。論理的であることよりも共感を生むことの方が強いことはいくらでもある。

『言語化力』三浦崇宏

私の好きな本のに書いてある文章です。

職場にも頭が良くて論理的な話が得意な方がいます。
私はずっとそれに違和感を覚えていました。
なんだか、その人と話をしていても疲れる。
というかもっと話しをしたいとならない。

その理由がこれだったのか。
とても腑に落ちました。

論理的に話すことは目的を達成するための一つの手段であって、勝ち負けを競うものではない。「相手を負かして自分の意見を通す」この感覚でいると嫌なやつになってしまうのだと思います。

目的を達成するというのは、話し合いの場で相手と自分の目的が合致するところを見つけ、そこに対してお互いの目的に最大にコミットするような最善を探す作業のことをここでは指そうと思います。

お互いが歩み寄る態度や心構えでそこに臨まない場合にバトルが始まります。犬猿の仲と呼ばれる関係になっていくのも無理はないです。

かといって、相手がそのような心構えを持っている人たちばかりではありません。これは私の勝手な偏見ですが、若くて俺が私がやってやる、というギラギラな人ほどバトルをしたがる気がします。私も然り。。。(もうそろそろ若いとは言えなくなってきましたが!)

自分がそうならない為に日頃から謙虚な姿勢を忘れないことは肝に銘じたいと思います。

話を戻して、相手がギラギラな場合こちらはどうしたら良いのか。

それは「俯瞰してギラギラな相手を深い懐にすっぽりと入れてしまう」のが良いかと思います。抽象的すぎて解決になっているのか分かりませんが。

「今」を見すぎるのではなくその1歩2歩先をみて、お互いの最善にコミットできるように大きな器を用意しておきたいです。

まだまだヤクルトぐらいの器しかない私ですが、ちょっとずつ大きくして、いずれはドーナツ100個くらい乗るようなでっかい器に育てます。

よかったら、皆さんも一緒にでっかい器を育てましょう。


それでは、今日も読んで頂きありがとうございました。

今日1日、頑張っていきましょう!

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