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あなたには残すべきレガシーがあるか?


久しぶりに聞いた「レガシー」

先日社内のとある会議で若手社員が「うちの会社には長きにわたって売れ続けるレガシーとなる商品が必要なんです!」と力強く主張していた。
若い人が元気なのは良いことなのだが、私がその時に考えていたのは
「レガシーって久しぶりに聞いたなぁ。なんで誰も言わなくなったんだろう?」
ということ。
東京オリンピックの前にやたらと耳にしたものの、その後すっかり聞かなくなってしまったこの言葉。「後世に遺す物」を意味するレガシーという言葉が全く後世に残りそうにないというのは何とも皮肉なものだが、どうしてそうなってしまったのだろう?
逆に、後世に残るレガシーとは一体どういったものなのだろうか?
そして、私のような一般人にも残せるレガシーなんてものがあるのだろうか?
そんなことをつらつら書いてみたい。

いつから「レガシー」が使われるようになった?

日本で「レガシー」という言葉が知られるようになったのは、どうもSUBARUが1989年に発売したセダン「レガシー」という車がきっかけだったようだ。「大いなる伝承物」になる車として、この名前が付けられたそう。
その後は1990年代にIT分野が急成長を見せると、コンピューターシステムのことを「レガシー・システム」と呼ぶように。これが古い物を揶揄する意味合いで使われていたことで、レガシーという言葉に「古い物。昔の遺物。」というネガティブなイメージが備わるようになった。
風向きが変わったのは、記憶にも新しい東京オリンピック 2020。オリンピック開催に必要となる莫大な経費への批判をかわすように、「今だけじゃない。今後も日本に引き継がれる新しい価値を生み出すんだ。未来の日本のために必要なんだ。」として、やたらと「レガシー!」「レガシー!」と叫ばれるようになった。
国民が皆それで納得したかどうかはさておき、その後の言葉の使われ方を見ると、オリンピックをきっかけに日本でレガシーという言葉がポジティブな意味で使われるようになったのは間違いない。

Legacyの語源

ここでちょっとLagacyの語源について触れてみたい。
「語源英和辞典」によると、この言葉は古ラテン語の「leg (読む、運ぶ)」が核となっており、これは「選ぶ」「遺言によって残す」という意味の「legare」に由来している。これが中世には「legatus」に変化し、「遺言によって残されたもの」という意味を持ち、後にフランス語を経て英語に入り、「legacy」という形で定着した。
したがって、英語の「legacy」には、法的な文脈での「遺言によって残された財産」という意味が強く残っている。
一方、日本では法的な意味でレガシーという言葉を使うことは皆無だ。遺産を残す時に「俺のレガシーが残す」とか言う粋なおじいさん、おばあさんは流石にいないだろう。多分。
つまり、同じレガシーという言葉でも日本語での意味合いとは異なり、日本独特の意味が付加されていると考えられる。

日本人の大好きなアレは?

それでは日本語での「レガシー」が持つ日本に近い英語はなんだろう?
パッと思いつくのは、日本人の大好きなアレ。そう「レジェンド (Legend)」。実はこれもLegacyと同じ語源を持っている。
「leg (読む、運ぶ)」に、「〜されるべきこと」という意味の「enda」がくっついて、後世に引き継がれるべきもの・・・すなわち「Legend = レジェンド」という言葉になったとのこと。
私たち日本人がレガシーという言葉を使う時は、どちらかというとこの「Legend」が持つ「後世に伝えるべきもの」という意味に近いニュアンスを伴っていると思われる。
しかし、日本で「レジェンド」というと、大谷翔平選手やイチローなど、個人のことを指していうことがほとんどだ。昔よく使われていた「○○の神様」 (例:野球の神様、経営の神様)」とほぼ同じ意味で使われている。だから、「レガシーを残す」というような意味で「レジェンドを残す」と言っても、いまいちピンと来ない。
どうも「レガシー」にしろ「レジェンド」にしろ、現在の日本で使われるような意味合いには当てはまらないようだ。

言葉の空席

このように考えてくると、レガシーという言葉が定着しなかったのは、そもそも”この言葉でしか表現できない何か”が存在しなかったからではないだろうかと思えてくる。
言葉というものは、本当に”それでしか表現できない何か”があるなら、否が応でも浸透する。典型なのは「スマホ」だ。ケータイでも、ましてや携帯電話でもない。スマートフォンと言いながら、電話として使うことが圧倒的に少なくなってしまった「Phone(フォン)」。日本語感覚では非常に座りが悪く、言いづらい悪い「スマホ」。スマートフォンの略語なら「スマフォ」が正しいはずで、なぜ「スマホ」と呼ばれているのかよく分からない。
にも関わらず、あの存在はやはりスマホという言葉でしか言い表せない。だからスマホとして定着している。

あるいはアラウンドフォーティー(Around Forty = 40歳前後)の略語である「アラフォー」も、その一例だろう。2008年の流行語大賞になった時にはネット上で「あらふぉー?」「そんなの誰も使ってないよ。」という反応に溢れていたが、何だかんだであっという間に市民権を得て、しっかり定着してしまった。
「アラフォー」という言葉が出た時には誰もピンと来なかったが、一旦その言葉が提示されると、「40代」という言葉の重みを和らげる”ぬるっとした表現”として重宝されるようになってしまった。

レガシーという言葉が定着しなかったということは、すなわち日本人にとって「そうそう、まさにこれだよ!この言葉を待ってたんだよ。」という待ち望んだ感がなかったということ。つまり、レガシーという言葉がないから感じる「表現したくても表現できないもどかししさ」みたいなものが、そもそも存在しなかったということだ。言うなれば、レガシーという言葉が居座る空席が日本語にはなかったのだ。
空席がないところに無理やりそれらしい外来語を放り込んでも、定着するべくもない。当たり前の話だったわけだ。

ただ、気をつけなければならないのは、それは必ずしも「日本には後世にこのすべき偉大なものがない」ということを意味しないということ。

内村鑑三「後世への最大遺物」

明治の思想家で内村鑑三という人物がいる。その著書「後世に遺すべき遺産」の中に、次のような一節がある。

「われわれが五十年の生命を託したこの美しい地球、この美しい国、このわれわれを育ててくれた山や河、われわれはこれに何も遺さずに死んでしまいたくない、何かこの世に記念物を遺して逝きたい、それならばわれわれは何をこの世に遺して逝こうか、金か、事業か、思想か、これいずれも遺すに価値あるものである。
しかしこれは何人にも遺すことのできるものではない。またこれは本当の最大の遺物ではない。
それならば何人にも遺すことのできる本当の最大遺物は何であるか。それは勇ましい高尚なる生である。」

「勇ましい高尚なる生」とはつまり、自分の人生に訪れる困難に勇気を持って立ち向かい続けるという覚悟のことだ。お金や事業、あるいは多くの人を動かすような独自の思想は、誰にでも残せるものではない。それは本人の努力だけでなく、その人を翻弄する運命の力にも左右される。努力だけで何とかなるほど人生は甘くない。むしろ努力した分、それが無駄に終わることがほとんどだ。
だが、その「立ち向かった姿」を残すことはできる。そして、それが後に続く人を勇気づけることになるかもしれない。

レガシーという言葉は、歴史に残るような壮大な一大プロジェクトのようなイメージを孕んでいる。だが、そんな壮大な巨大プロジェクトは多くの一般人の目にはどこかよそよそしい物に映る。
かと言って、自分自身が後世に残るべきレジェンドになるというような壮大な夢も、また多くの人にとっては壮大すぎる話だ。
でも、そんな多くの普通の人々であっても、内村鑑三が言う「勇ましい高尚なる生」であれば、必ず残すことができる。もし、レガシーという言葉相応しいものがあるとすれば、この姿勢こそがそれではないだろうか。
そして、それには「レガシー」というような壮大なイメージをまとった荘厳な響きは必要ないのである。
恐らくこれがレガシーなる言葉が日本に根付かなかった理由だろう。

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