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ノーベル賞が街にくまなく降りそそぐ

─────エッセイ

今日、晩ご飯に我が家の定番野菜スープが出てきた。タマネギとニンジンを賽の目に、キャベツとベーコンを刻んでその塩味と塩麴で味付けした和洋風スープ。

子ども達が小さいときは、なかなか野菜を食べてくれなくて。頭を抱えながら、試行錯誤のうえに妻がたどりついた一品。我が家の母の味、堂々の殿堂入り第一位。子どもたちの体の半分は、このスープでできてるんじゃないかという我が家のソウルフードだ。

このスープ、かれこれ10年近く食卓に上がり続けている。週イチ平均だとすると、約500回。子どもたちが保育園に通ってるときは、週2ないしは週3で出てきたから、600回は登板した不動の大エースだ。

このスープにどれだけ助けられたか。子どもの体調が悪く、食欲がないときでもこのスープなら飲んでくれた。どんなときも、この野菜スープがあるだけで食卓が華やいだ。

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タマネギが苦手な長男も、このスープだけはお代わり必至。6年生になった次男もゴクゴクと喉を鳴らしながら飲む。飲まれ続けて600回。

これはもう、世紀の大発明ではなかろうか?

この野菜スープなしでは、子ども達の健康な体は出来なかったかもしれない。笑顔で囲む食卓の回数も減ったに違いない。きっとそんなノーベル賞級の発明が、家庭の数だけあると思う。なにもそれは食事に限ったことじゃなくて。朝の挨拶かもしれないし、部屋に飾られた一輪の花かもしれない。家族だけが知っている、ご機嫌になる魔法のアイテム。

そんなアイテムを作ったり続けてきた人みんなに、ノーベル賞をあげたらいいのにと、鍋の中で残り少なくなった野菜スープを見て思った。

「私のすべての換金可能な財は、次の方法で処理されなくてはならない。私の遺言執行者が安全な有価証券に投資し継続される基金を設立し、その毎年の利子について、前年に人類のために最大たる貢献をした人々に分配されるものとする」

ノーベルの遺言の一文 wikipediaより

人類の中には家族も含まれるのだから、選考対象にはなってもいいよね。誰もがみんな受賞したらノーベル賞の価値は下がってしまって、がんばったで賞みたくなるのも分かってる。

それでも。

今日も美味しいね、と言ったり。子ども達がおかわりするのを眺めたりしながら。やっぱりこれは大発明だよなぁと思って、華やかな晩餐会にいる妻の姿を想像したくなるときがある。

慣れない和服姿でしずしずと歩く妻は、普段とはまったく違う雰囲気。横を歩くタキシード姿のぼくも、まるで七五三みたい。いつもと全然違う二人なんだけど、『わたしのおかげでここに来られて良かったね』と冗談っぽく言う妻の笑顔はいつもどおりで。ぼくもいつもと同じな苦笑いをしている。

そんな夢をみたくなるような。
雨が残る4月、ある木曜日のひとりごと。



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