見出し画像

まずは自己紹介


私がビールを真剣に勉強しようと思ったのは、'96 年頃、『dancyu』という料理雑誌で世界のビール特集の記事を読んだ時です。
その内容は、今までの私の浅薄なビールの知識を吹っ飛ばしました。ビールはこんなに奥が深いんだと知り、無性に勉強したくなりました。
そんな私を誘うかのように、“ビールのソムリエ資格が取れますよ”という記事を見て、日本地ビール協会のことを知りました。
当時の私は一通り色々な種類のお酒を飲んだあげく、日々お酒が醸す楽しい世界に浸っていたいと思いました。ですが身体には良くないので、毎日飲むならライトリカー(※アルコール度数の低いお酒の事)かなと思い、若い頃から嗜んでいたビールにシフトをし始めていました。
勉強し、取得するならこの資格と思ったのが、このビールの勉強の始まりでした。

湘南・茅ヶ崎の生まれ育ちの私は、家から程近い海辺の、青い空と砂浜が広がり、開放的な雰囲気が満ちあふれた様子は、当時なんとなく想像するアメリカ西海岸と同じ風が吹いているみたいに感じていました。
そんな開放的な環境で集まるサーフィンやテニスなどの仲間たちとの打ち上げでは、
「ビールは水だよね」「ビールのない人生なんて考えられないよね」と、ことあるごとに語らっていました。
そんな折、『POPEYE』という雑誌が発刊されました。
『POPEYE』はアメリカの若者たちのムーブメントを発信する内容でした。
私の周りの仲間たちは、こぞって『POPEYE』を読みました。その記事や写真を見ながら、アメリカのメジャービールであるバドワイザー、クワーズ、ミラーなどが、アメリカの西海岸・東海岸では、飲まれているねと、そんなシーンと自分たちのいる湘南を重ね合わせながら、地元の遊び仲間と盛り上がっていました。
当時飲んでいたのはそんなメジャービールだけでしたが、それでも十分に楽しめていました。
日本で定番だったキリンやサッポロ以外のビールを飲む事で少しだけ優越感に浸っていたのです。
その後、世界には遥かに数多くのビールがあり、奥深い知識の森を地ビール協会に入会してから知ることになります。

画像1

さて、日本地ビール協会が発足する少し前の話です。
日本経済はバブルが崩壊し、ちまたにはバブル期に流行ったワインやシャンパンのソムリエ、自称ソムリエが山ほどいて、女子の人気を一心に集めていました。
私もお酒の世界で一目置かれたくて、ワインの勉強を始めたかったのですが、とても今から勉強を始めていたら、先を行く人には到底追いつけないこと、勉強にはかなりのお金がかかる、というのがネックとなっていました。
そこで私が目をつけたのは、長年飲んでいながら、底辺は広いのに競技者(専門家)人口の少ないビールでした。
ワインに比べたら安く上がりそうだし、すぐにうんちくを語れそうだったので(笑)
まさにこのタイミングの天啓です。

'96年に地ビール協会に入会し、講習会では奥深いビールの世界の新鮮な驚きに、身も心もダイブしていきました。
世界には100種類以上のビールのカテゴリーがあるのに、日本では小規模醸造(クラフトビール造り)が認められていなかった’94年までは、大手メーカーによるジャーマンピルスナースタイルしか作られていなかった事に驚き、を知りました。また、ベルギーだけで1,500以上の銘柄があることに更に驚き、勉強しなければいけないこと、座学も実学(試飲)も沢山ありました。
そうして、深く潜り込むうちに、シニア・ビアジャッジ、ビア・コーディネーター、ビア・クォリティー鑑定士などの資格を取得して、ビアフェスや品評会の審査員までするようになりました。
一番印象的な出来事は、世界的に有名なビール評論家の重鎮、故マイケル・ジャクソンさんか来日された時です。たった一度の機会でしたが、同じテーブルでマイケルさんと一緒に審査をした時はドキドキしました。それが一生の思い出となっています。

時は流れ、ビール審査の一線からは外れましたが、今日のビールは何にしようかな、何と合わせようかなと、日々そんなことを考えてワクワクして、みんなとシェアできたらいいなと思っています。私の好きなビールは星の数ほどありますが、強いてあげれば、

#セッションIPA
#アメリカンpaleALE
#セゾンビール
#ランビック
#ヴァイツェン

まだまだありますが、
それはこれから話してまいります。
よろしくお願いします。

画像2


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?