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『レコード芸術』休刊 掲載原稿の思い出

『レコード芸術』がいよいよ休刊になるらしい。

これも時代の流れだから仕方ない。とはいえ、母校が廃校になるような悲しさと寂しさがあった。

『レコード芸術』、通称『レコ芸』は長らくクラシック音楽ファン(クラオタ)のバイブルだった。

『レコ芸』の思い出を振り返りたい。

私が『レコ芸』に出会ったのは1997年だったろうか。

1996年の秋、高校1年の私は家出をして新聞販売店の寮に住み込みで働いていたが、そのころに『レコ芸』を買い始めた。

クラシックに興味を持ったのは中学2年のとき。
音楽の授業で、先生が3大テノールであるルチアーノ・パヴァロッティが歌う「誰も寝てはならぬ」のレーザーディスクを見せてくれて衝撃を受けた。
ちょうど授業が終わるタイミングだったので他の生徒が帰り始める中、その場から動けなかったくらいだ。

それで学校近くの小さなレンタルCDショップの片隅にあったクラシックコーナーで、「アダージョ・カラヤン」など当時流行ったコンピレーション・アルバムを借りたりしていた。

働き始めてからは駅前にあった小さな街のCDショップで「カラヤン文庫」なるシリーズのカラヤン/ベルリン・フィルのベートーヴェンの交響曲を一枚一枚揃えていった。

当時は「運命」ですら長く感じて、「エロイカ」の良さなんてまるでわからなかった。

そんな中、何かガイドブックがあればいいなと思い、書店で出会ったのが『レコード芸術』だった。

しばらくは毎月買っていた。当時、『ぴあ』も毎週買っていた。
この2つの雑誌に私の思春期のエンタメ観は相当鍛えられたといっていい。

買い始めたころの1997年の表紙はこんな感じらしいが、あまり記憶にない。

1997年の表紙

私が記憶によくあるのはこちらか。

1999年の表紙

宇野功芳と出会ったのも『レコ芸』だった。

月評を読んでいって、宇野功芳の文章だけダントツで面白かった。
それは文章の芸もあるが、良し悪しの評価と理由が明確だったからでもある。

褒めてるのか貶してるのかわからない評論家が大勢いた。文章だけ読むとまあまあ褒めてるのに準推薦だったりする。
読み手としては「なぜ準推薦止まりなの? 推薦にする決め手を欠いた理由を書けよ」と思うのだが、「当たり障りのないことを書くのがプロの芸」といった文化が存在したのである。
宇野功芳はそうした論壇の空気を一切読まない人なので面白かった。

ハイドンが好きになったのも『レコ芸』のおかげ。
新譜CDの冒頭30秒ほどが収録された悪評高い付録サンプルCD(いらないから100円値下げしてくれと読者に言われていた)で、宇野功芳と小石忠男二人とも推薦していた特選盤のクイケン/ラ・プティット・バンドのハイドン「太鼓連打」「ロンドン」を聴いた。

思い出のCD

「ロンドン」の序奏が終わったあとの軽快な第一主題に心を奪われ、このCDを買った。
ハイドンを好きになったきっかけの一枚だ。

振り返ると『レコ芸』文化の最も絢爛な時期はヴァント/ベルリン・フィルのブルックナーが次々とリリースされていたころではないだろうか。

1998年レコード・アカデミー大賞

このCDは画期的だった。これの前にジンマンが初めてベーレンライター版で録音したピリオドスタイルのベートーヴェン交響曲全集が大きな話題となったが、このヴァントのブルックナーはレコード(CD)芸術の究極とも呼べる存在だった。

高品質なライブCDの走りではないだろうか。
それまでのライブCDはドキュメント的な要素が強く、音質は二の次といった感じだったが、ヴァントのブルックナーはみっちりリハーサルをしたうえで3日間コンサートをし、その中からベストの音を継ぎはぎするというものだった。
その結果、ライブCDの熱気やうねりは残しながらも、スタジオ収録に負けない精度のクオリティも両立させたのである。
まさに「CD芸術の極北」と言えたかもしれない。

もちろん音質のよいフォーマットはその後どんどん出てきたが、デジタル音源の時代へと移り変わり、令和の時代となってはCDを買ったことのない人や家に再生装置がない人も少なくないだろう。

ヴァントの「ロマンティック」がレコード・アカデミー大賞を受賞した時代は、まだ宇野功芳も吉田秀和も生きていて、『レコ芸』に活気があった時代だった。

さて、そんな『レコ芸』の読者投稿欄に私は2回掲載されたことがある。

せっかくなのでここに載せます(拡大してお読みください笑)

“チョン・キョンファ”という奇跡
スタンディング・オヴェーションを!

最初に採用されたのは2枚目の方で、その後に書いたチョン・キョンファのコンサートレビューは宇野功芳臭ぷんぷんで編集部で爆笑だったのではないか。
宇野功芳はクラオタにとってのスターでもあったのだ。

今は評論が読まれない時代になった。音楽評論に限らず、映画評論も文芸評論も。
かつてはその分野に精通した評論家に「物の見方」を教わったものだ。
宇野功芳の聴き方をなぞりながら、クラシックの面白さを発見していったのだ。

今ではHMVや各レーベルのホームページで新譜の試聴ができるし、ある程度の知識があればわざわざ評論家に頼らなくても自分でチョイスができる。
巷にユーザーレビューが溢れ、専門家の文章の価値が下がってしまった。
お金を払ってまでそれらを読もうとする人が減った。

しかし、「系統立てて鑑賞する」という芸術鑑賞の基本を評論は教えてくれる。
それなりに映画について語りたいのであれば、溝口や小津といった古典も押さえておくのはかつては常識だった。
素人のユーザーレビューとプロの評論の一番の違いは古典の教養だと思う。

『レコード芸術』に活気があった時代。世のクラシックファンは往年の野球ファンが王や長嶋に熱中するがごとく吉田秀和や宇野功芳の音楽評論を読んで、己の音楽観を熱く語りあったものだ。
スマートフォンどころか携帯電話もまだなかった時代。新譜のCDを買ってきて初めてプレーヤーにセットするときのワクワク感はサブスク全盛の現代においては失われてしまった。

『レコード芸術』休刊のニュースを知り、はるか昔に卒業した母校で音楽文化の灯を灯し続けていた人がいたことにはたと気づかされた。

ヴァントの「ロマンティック」がリリースされた当時ほどの熱で、今の私はクラシック音楽を聴いているだろうか?

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