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こんなエロイカが聴きたかった! カーチュン・ウォン/日本フィル

サントリーホールで日本フィルの名曲コンサートを聴いてきた。

指揮:カーチュン・ウォン[首席客演指揮者]
ギター:村治佳織

ロドリーゴ:アランフェス協奏曲
【アンコール】
村治佳織:エターナル・ファンタジア

ベートーヴェン:交響曲第3番《英雄》変ホ長調 op.55

このコンサートに行こうと思ったのはカーチュン・ウォンのエロイカ(英雄)が聴きたかったから。

エロイカ大好きなのだが、最近はこじんまりしたベートーヴェン演奏ばかり増えてきて、ベートーヴェンの良さであるドキドキワクワクを感じさせるものが減ってきた。

マーラーやブルックナーはドキドキがまだ感じられるが、ベートーヴェンはすっかり博物館の音楽に。

モダンの指揮者はバッハに手を出さないが、ベートーヴェンも教科書から外れた演奏をしたがらなくなってきた。

では、なぜカーチュンなのか?

2021年12月に同じサントリーホールでカーチュン/日本フィルのマーラー5番を聴いた私は仰天した。

CDや配信音源にもなってるからぜひ聴いてほしいが、個性満点の表情づけはあのバーンスタインにも引けを取らない。

カーチュンならきっとエキサイティングなエロイカを聴かせてくれるはず!

そう思って行きました。

まず、ロドリーゴの感想から。

村治佳織は2000年前後に2回くらい聴いた。
昔はアイドル的な人気があった(今でもそうだろう)。
ギタリストはオーケストラからアランフェス協奏曲ばかり依頼されがちだから、そうやすやすと弾きたくはないはず。
今回はカーチュン・ウォンだから受けたのではないかと勝手に思っている。

真っ赤なドレスで登場。

全編気負いのない、絶妙に力の抜けた演奏で、完全にこの曲をものにしている印象だった。

カーチュンはこの曲では手振り。

第1楽章が終わると1階席の最後列に遅れてきた人を入れていたが、村治さんはおそらくその人たちが座るのを待つあいだペグを締め直したりしていた。

第2楽章の憂愁が一番の聴きものなんだろうが、よくも悪くも「通俗的な名曲」と感じた。
ロドリーゴのオーケストレーションが浅く感じるというのか……。

村治佳織の音色や表現はよかったですけどね。
アランフェスを久しぶりに聴いて、今の自分にはややわかりやすすぎる曲に感じた。

第2楽章が終わるとカーチュンはそのまま右手をゆっくり上げていく。
しばらく上げたところで村治佳織が阿吽の呼吸で第3楽章を弾き始める。
ここで区切って聴衆の咳連発になったら音楽の流れがぶち切れるからこのやり方はよかった。

洗練と軽妙洒脱を感じるアランフェス協奏曲だった。
村治さんがステージから退場しかけた瞬間にカーチュンが首席オーボエ奏者(だったかな?)と首席チェロ奏者を立たせていた。
この辺の配慮もスマートだ。

アンコールは村治さんの自作だった。
クラシック風でもあり耳になじむメロディもあり、また聴いてみたいと思った。

さて、休憩後はお目当てのエロイカ。

いやー、びっくりした。

ノセダ/N響の運命みたいに出てきてオケに振り向きざまに振るパターンを予想していたが、そうではなく、オケを向いてしっかり間を作ってから。

ただ、指揮棒を持たない左手をまるで鉄槌のように大きく下に振り下ろしたのだ!

その結果、冒頭の2音が今まで聴いたことのない迫力で生まれた。

これだけで感動した。カーチュンがありきたりなエロイカを奏でようとしていないのがよくわかった。涙が出そうだった。

ある日本人指揮者が(広上淳一か佐渡裕?)

「指揮台の上で裸にならないと出ない音があるなら裸になる」

と言っていた。

これはつまり、指揮者は欲しい音を出してもらえるような指揮をしないといけないということだ。

東京音大の指揮科で教鞭をとる広上淳一のレッスンをテレビで見たことがある。

生真面目で生徒会長風の4年の女性が広上から指導を受けていた。
彼女の緊張がありありと伝わってくる。

そのとき振っていたのはドヴォルザークの交響曲第8番の第2楽章。
広上は愛の表現が足りないと指摘し、彼女に見学に来ていた藤岡幸夫に向かって「さちおー!」と叫べと指導していた。

私はこれは彼女の羞恥心を捨て去るよい指導だと感じた。
指揮者がミスを恐れていると、奏者もミスを恐れ出すのではないか。
結果として、無難でつまらない演奏が出来上がる。

マケラとカーチュンの指揮姿は対照的だ。
マケラはテレビゲームを器用にこなしているような涼しげな指揮だが(マーラーやショスタコーヴィチでも“汗”を感じなかった)、カーチュンのへんてこりんな指揮姿は何と表現したらいいのだろう。

珍妙な指揮。

そう言わざるをえない指揮姿。

だが、そうしないと出ない音があるからそのような動きをしているのだろう。

カーチュンの指揮はわかりやすい。
スコップで土を掘るような動作のときはヴィオラの音が深いところから上がってくるようだったし、珍妙な動きとオケの表現が連動してるので「こういう音が欲しいのね」とよくわかるのである。

大野和士なら絶対こんな振り方はしないと思うし、広上淳一でもここまでできないと思う。
普通の指揮者の感覚でいったら恥ずかしい動きばかりだ。
指揮ではなくジェスチャーをしているようにも見える。

だが、出てくる音はその動きをしっかり反映している。
オケとの信頼関係の証でもあるだろう。リハーサルも和気あいあいとしてそうだ。

ここまでオーバーな身振りをしていると普通はパフォーマンス的になりがちだが、カーチュンはあくまで必要に迫られてやってるだけなので、視覚効果を狙った動きはまったく感じない。

エロイカはベートーヴェンの9曲の交響曲の中で一番好きかもしれない。
第1楽章の「楽想がどんどん膨らんでいく感じ」、葬送行進曲やスケルツォの斬新さ、そして畳みかけるように始まるフィナーレの推進力。

第2楽章は予想よりは早いテンポだった。ノット/東響の第九の第3楽章も颯爽としたテンポだったし、早めに演奏した方が情感が出る場合もあるだろう。
葬送行進曲はやや苦手なので、カーチュンのそのテンポでも後半は長く感じた。

第2楽章の終わりにしっかり間をとっていたので、第3楽章→第4楽章はアタッカ?と思ったら実際そうだった。
そのおかげで推進力はさらに膨らんだ。

今回の編成は通常のフルオーケストラで、コントラバスはたしか7人。
弦の並びは下手から1st→2nd→Vc→Vaで、 Vcの後ろにCb。
ベートーヴェンを対向配置でやらないだけでも今どき珍しい。
Cbを下手の1stの後ろに置く指揮者も多いはず。

作曲当時のスタイルからは外れているのかもしれない。
私には往年の巨匠たちが奏でたベートーヴェンの延長線上にある音楽と感じた。

しかし、いわゆる「巨匠風」ではない。
ベートーヴェンが威風堂々と奏でられていたころのダイナミズムはそのままに、もったいぶったテンポはやめにして、スピードよく音楽を作っていた。
昔の名画が埃をはらわれて新鮮な発色を取り戻したようだった。

コーダに入ってからカーチュンはさらにギアを上げるかと思ったが、まったくそんなことはなかった。
つまらない演奏でコーダだけ大熱演という聴衆を馬鹿にしたようなコンサートがまれにあるが、カーチュンは今までと何ら変わらぬ指揮スタイルで最後まで振り続けた。

この人はこれだけ珍妙な指揮姿なのにケレン味がない!

演奏が終わると真っ先にホルンの3人と笑顔で握手していた。

今日の団員は楽しそうに弾いてるのが伝わってきた。
音楽家を目指した人の中には幼いころベートーヴェンの運命や第九を聴いて感動した人も多いはず。
そのベートーヴェンはドラマティックではなかったか。

学究的な解釈ばかりが主流になり、ドラマティックなベートーヴェンは時代錯誤とされてきた。
今日は音楽の原点に返るような演奏だったと思う。

奏者の中では、首席オーボエの杉原さんの音色が美しかった。
ベルをしきりに上下させて吹いていたのもカーチュンの指示だったのかもしれない。

今日は“ガチ勢”の多いコンサートとは客層の違う名曲コンサートだったせいか、拍手が終わるのがわりと早く、危うくソロ・カーテンコールがなくなりそうに😂

10人くらいしか拍手してなくて、私も必死に手を叩きました😂

来週のバルトーク&伊福部は行くつもりなかったけど、急遽行くことにした。

この指揮者は毎回聴き逃せない。

在京オケではノットの東京交響楽団、高関健の東京シティ・フィルが好きだが、カーチュン・ウォン/日本フィルもそれに加わった。

エキサイティングなクラシックを聴きたいならカーチュン・ウォンだ。

コンサートホールで聴く醍醐味を彼ほど味わわせてくれる指揮者はいない。

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