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精神は水物だということ。

気をつけて見てみると道端には本当に沢山のアートが落ちている。


もちろんアートとして造られたものではないものもあるし、人間が創り出したもは自然が産み出した造形には到底敵わない。
以前はよくこんなことを気にして生きていたのに気がつかなくなったのは忙しいせいかもしれないし、単純に感性が老化したのかもしれない。

自然の生み出す造形とは違い、街中のはただ、施工しただけのものかもしれない。
なんの意図もないのかもしれない。
だけど道端に、街中に落ちてるアートに気がつけるのもなかなか贅沢なことだと思う。

私は元々鈍いところがある。
鈍いという表現が的確なのかはわからないけれど、人が当たり前に怖がることを怖がれない感覚の鈍さのようなものだ。

反面、人が怖がらないことを怖がってしまうし、どうして人がそれを怖がらないのかわからない。
人と違うことをしたいわけでもないし、どちらかというと人との相違に孤独感を募らせるのだから、そうなりたくてなっているわけでは決してないけれど、意識してないところでそのような性格なのだから治しようもないと思っている。

近い将来、子離れしなければならない時の為に覚えておきたいこと。

この生き難い現代社会で、もしも子供が産まれてきたくなかったと思った時に私が忘れていてはいけないと思うこと。

そう言ったことを備忘録として、または終活ノートの1つとして記している内に、仕事の話も描きたい、こんなのも描きたいとなってしまって驚いている。
ちょっと久しぶりに大きめの発作を起こしたことで、終活ノートでも書いてみるかと始めたはずのnoteに、想定していた以上にハマってしまい1週間のスケジュール配分に少し困っている。

仕事の話はこれから仕事復帰するママさんの参考になれば良いなと思うから。復帰、と簡単に言うほど産後の仕事復帰のハードルは低くない。起業したり持ち前の器用さを活かして在宅ワークが出来る人も中にはいるけれど、大抵の人は私と同じ凡人であるはずだし、下手すれば私のように精神的に問題がある人もいるかもしれない。

あとはアレルギーの話だけど、これは書きたくない。アレルギーに本当に苦しんでいる方の為に書くには、あまりにもアレルギー治療に関する分野の研究が進んでいなくて恐ろしくて書けないというのが本当のところ。アレルギーは千差万別で自分が大丈夫だったから他人も大丈夫とはならないから怖い。

他に書いてみたいと思うことはカウンセリングもその1つで、私は自分が鬱病だということに納得がいっていなかったりする。
鬱病が悪いというのではなく、私の周囲に鬱病の人間が多すぎるのも納得できない理由の1つだと思う。
友人も数人は鬱病の診断をされているし、職場の人もそうだ。
現代病とは言え、早い話が誰でもかれでも"鬱"って言って済ませようとしてないか?と主治医の診断を疑わしくすら思うのだ。 

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