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Deathフェスに行って「死」について考えさせられた話

「まさか自分ががんになる可能性があるなんて」
子宮頸がん検診で軽度異形成の診断を受けた。
「軽度異形成は、すぐにがんになる段階ではないから心配しないで。でも、治療法はなく経過観察しかないから、また検査にきてね」
と、医者に言われたけれど「がん」という言葉だけが印象に残った。
その日は何もやる気が起きなくてベッドの上で動けないほどひどく落ち込んだ。
「別に死ぬのが怖くない」という人がいるけれど、本当にそう思っているのだろうか。わたしとは違って「死」が遠くにあるからそんな呑気なことが言えるのではないのか。
ある程度落ち込んだあと、誰に対してぶつけたらいいかわからない怒りがこみ上げてきた。

そう、わたしは死ぬのが怖い。
まだまだしたいことがいっぱいある。
あぁ、死にたくない!

「死」に関連する話題でいうと4月14日は「よい死の日」らしい。

「死」に興味があるわたしは、Deathフェスに参加してきた。

👇展示

「あなたは死後、あなたの個人データとAIやCGなどを利用して復活させることを許可しますか?」
アンケート調査
「今日は死ぬのにもってこいの日」

👇講演


さて、縄文人は「死」についてどう考えていたのだろう。
飛騨市は、子孫繫栄のためにつくられた石棒が計1074点発見され、「石棒の聖地」と呼ばれている。

https://www.sekiboclub.com/


石棒を1つ製作するために1日7時間労働を1カ月弱も費やすらしい。しかし、祭典での役目を終えると、縄文人自ら石棒を壊すそうだ。
それは「人は死んだらいなくなるのではなく、風となり、鳥となり、星となり、自然に還って存在し続け、やがて再生する」という考えをもとに行動されたと言われている。
常に死と隣り合わせで強靭に生きた縄文人は、死を特別なものとは考えず、死を受け入れて生きていたのだ。

死を受け入れる

そうか。
死を回避するために必死になるのではなく、いずれくる死を受け入れるのか。
Deathフェスの講演のなかで「自意識の消滅が死というものに対し恐怖を抱く1つの要因」という話があった。

「自意識」とは、自分自身についての意識であり、周囲と区別された自分についての意識を指す。


生理的な欲求を置いておいて、普段「自意識」を感じる瞬間は少ない。
ただ、自分が積み上げてきたものが崩れる、通用しないという場面に出会ったとき「自意識」を感じるときがある。たとえば転校や転職など新しい環境に身を置いたときなど、「自意識」が扉をたたいてくる。
死んだら「自意識」がなくなるのであれば、生きているうちに思う存分「自意識」のシャワーを浴びるべきではないだろうか。
極端かもしれないが、何かに挑戦したり、新しい場所に行ったり、意識的に「自意識」を感じさせることが死を受け入れる準備なのかもしれない。
死を受け入れる方法をいろいろ試しながら、死とともに生を歩んでいこうと思う。


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