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映画を早送りで観ちゃダメですかね?

最近、映画を早送りで見る若者がいて、

ポップス曲のギターソロスキップして聴く輩がいるらしい。

なんなら、イントロが長すぎるともう聴いてられないっていう輩までいるらしい。

そんな話を聞いて、最初は驚きとともに「そんなの、情緒もリアリティもあったもんじゃない」と憤りを感じたものです。
多くの中高年が「最近の若者は嘆かわしい」という印象を抱いているようです。
それからというもの、この件について、日々あれこれと思考を巡らしていたわけですが、最近は「まあそれもそれでいいんじゃないかな」と思うようになってきています。

もちろん、自分自身の価値観とは異なるうえ、コンテンツの作り手からすると悲しいことかもしれないけれど、一方で、時代にあった消費の仕方があり、これも「何かを捨てて何かを得るトレードオフ」なんじゃないかと思うのです。

(本題の前に)ドストエフスキーを読んだ話

こないだ、職場のデスクを片付けていたらドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の上巻が出てきました。昔、同僚が「断捨離だ」と言って読まなくなった本を私にくれて、ずっと引き出しの奥にしまっておいたものでした。
『カラマーゾフの兄弟』といえば、世界的な名著と言われていますが、上・中・下巻2,000ページくらいの超長編で、なかなか手を出せずにいました。ドストエフスキーといえば、大学生の時に読んだ『罪と罰』が当時非常に楽しめた思い出があり、今でも心に残る作品だということもあって、これも何かの縁だと思って読んでみることにしたのです。

現代でウケるコンテンツ、ウケないコンテンツ

読んだことのある人なら分かってもらえると思いますが、上巻はそれほど面白くありません。特に最初の100ページくらいは物語が全く始まりません。登場人物の生い立ちや家族関係の説明が延々と続き、正直いって苦痛です。
第2章でようやく物語が始まったと思っても、一同に会した人達がさまざまな会話を繰り広げるばかりなので「あれ?これって面白いのかな」という疑念を抱きました。

ところが上巻の終わりくらいから急に「なんだこれ面白い」となって、あれよあれよという間に読み進めてしまうのです。
中巻くらいからは勢いに乗って「さぁ役者は揃った」と言わんばかりに、怒涛の物語が展開されます。起承転結に沿ってしっかり情報を固めていったからこその面白さがあり、構成としては素晴らしいものがあります。

ただ、現代にはウケない構成と長さだなと思うのです。
作家の平野啓一郎さんが言っていたけれど、「すぐに面白い」ものが求められる現代では、「起承転結」の流れは受け入れられづらく、今は「転から始めるもの」じゃなければ流行らないというのです。まさにその通りだなと思います。
『カラマーゾフの兄弟』なんて、父親殺しの話ですけど事件が起こるのは中巻の後半からですよ。そうじゃなくてきっと、最初に事件が起こるというのが現代風なんでしょうね。

現代社会は情報が溢れまくっていて、面白いコンテンツの量もスピードもどんどん加速しています。そんな中で、一つのコンテンツに何時間も費やせという方が難しいことなのかもしれません。

早送りするのは良くないのか?

さて、最初の話に戻って、
「だからといって、映画を早送りで消費するのは良くない」という批判については、すごく気持ちは分かります。私自身、オーケストラで何十分もあるクラシック音楽を演奏する身ですので、これは分かります。
でも、全面的に批判してしまうのは、ちょっと思考停止してるんじゃないかなとも思うのです。

大量のコンテンツをうわべだけなぞって消費していると、当然ながら、人物の感情の機微や事物のディティール、それらをつぶさに観察して始めて得られる観念と感動の境地は得にくいでしょう。
しかし、一方でこれも当たり前のことですが、そうやって消費することで、圧倒的に多くの情報やコンテンツにリーチすることができます。
「そんなものは、大した価値じゃない」という人もいるかもしれませんが本当にそうでしょうか? 私はなんとなく「情報を大量に知っていて捌けるやつ」が今よりも重宝される日が来る気がするのです。

コンテンツを選び、共有する能力

ネットが普及する前は、コンテンツ情報はローカルtoローカルが基本で、クラスの面白いやつの武勇伝は学校内だけで普及し、広まっても同市内の隣校が限界だったでしょう。それが今や、全世界に瞬時に届けることが可能になっています。

また、時系列的な情報の蓄積もどんどん進んでいます。私が幼少の頃は、音楽も文学も常に新しいものだけが注目されていたように思います。当時、若者にとって古い歌は、古い時代の人のための、古臭いのものでしかありませんでした。しかし、最近では1999年にリリースされたブラックビスケッツの『タイミング』に合わせてTikTokを撮る若者がいたり、どこでそれを知ったのかというほど、歴史の帳に埋もれた名曲を聴いている若者もいます。

つまり、コンテンツが空間的な制約を取り払われた上に、歴史の中で蓄積された厚みを持って存在しており、さらには全市民が発信者になれるほどネットが進化して新しいコンテンツも乗数的な速度で増えているということです。
そんな中で「コンテンツを選び、共有する能力」が重視される社会が来るんじゃないかなと思っているのです。

ニューカマーの『捌くやつ』

別の言い方をすれば、情報の発信者と受信者をつなぐ存在のプライオリティが今以上に上がるというイメージです。その存在は、商社とか卸売みたいなものです。もっと「情報」に近づけていうならばマスコミみたいなものです。
従来までもマスコミの存在は非常に重要でしたが、もっとその役割が市民化・ニッチ化するんじゃないかと思います。「欲しい人に欲しいコンテンツを届ける」ということがより重要になるということです。

そんな時に、うわべだけでいいから大量のコンテンツをとにかく捌くというのは、これからの社会にとってより必要な能力になっていくと思いますし、その能力がプロフェッショナル化していくかもしれません。

一方で、一つのコンテンツをじっくり味わう人はこれからもしっかり存在していくはずだし、新たなコンテンツを生み出すクリエイティビティには、じっくり味わう作業が必要不可欠です。そういう人は引き続き新たなコンテンツを生み出す役割を担い、その先にニューカマーの「捌くやつ」がいて、そのおかげで欲しい人のところにコンテンツが届く。こんな未来をぼんやり想像すると、映画を早送りする人も受け入れられる気がしました。

最後に

J-POPが圧倒的な市民権を持っていた90年代、毎週のように大量のポップソングがリリースされ、その中には今でもテレビで流れる曲もありますが、一方でメディアに二度と取り上げられないであろう、当時の人々の記憶にだけ刻まれた数々の曲がありました。子供心ながらに「自分が大人になったときに誰かがこれらを掘り返す時は来るのだろうか」と思いました。当時は、それを掘り返す図書館の司書さんのようなイメージを抱いていましたが、それがいわゆる『捌くやつ』でした。

これを書きながら、ナイツの漫才で、15分くらいの尺があって、前半ほとんど笑いがないのだけど、ラスト3分で全ての伏線回収をして、しかもそれが大ウケするという、およそ現代社会に適していない「じゅげむ」というネタを思い出しました。今もどこかで見れるかなぁ。

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