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『ジュラシック・ワールド/炎の王国』が食い荒らす名作の遺産

『Jurassic World: Fallen Kingdom』★・・・。(4ツ星満点中、1ツ星。)

作品性と採算性が一致しないケースは、驚くほど多い。かつての名作ブロックバスターの「遺伝子組み換え作品:第二弾」とも言うべき「炎の王国」は、興行的成功とは裏腹な完成度を見るに、その顕著な例だと言っておくのが正解。


「作品単体への課金」という常識さえも覆りつつある現代。ともすれば映画興行のあり方をも考えさせられる、老舗スタジオ・ユニバーサル渾身の夏映画だが...。そのスケール感を味わうためだけに映画館で鑑賞してもいいか、という塩梅の一本。


1993年の名作『ジュラシック・パーク』から15年。フランチャイズをリブートして成功を収めた2015年公開作『ジュラシック・ワールド』の続編が、夏の興行ラッシュに合わせて公開。『炎の王国』はクリス・プラットとブライス・ダラス・ハワードをふたたび主演に据え、前作から3年後の物語を描く。

興行初週は北米で$150Mの好スタートを切るだけでなく、全世界$700Mを超える記録的なヒットを叩き出している。監督は前作のコリン・トレボロウが降板したため、アジアで大津波を生き延びる白人家族を描いた快作『インポッシブル』のJ・A・バヨナが担当した。

[物語]

恐竜たちが暴走し、大量の死傷者を出したテーマパーク「ジュラシック・ワールド」の一連の事件から3年。島では火山の噴火がはじまり、恐竜たちはふたたび絶滅の危機にさらされる。「恐竜たちを救うべきか否か。」世論を巻き込むディベートがはじまった。

[答え合わせ]

この映画の詰めの甘さは、飛び抜けている。

唐突で使い捨てなプレミス、主人公たちの不自然な動機、説得力のない行動。次から次へと現れる平面的なキャラクターたちはもとより、彼らが餌食にされることの物語的な意味合いの薄さも甚だしい。

キャラクター同士がお互いを掘り下げ合うこともなければ、彼ら自身が良いパフォーマンスを披露してくれるわけでもない。プロット上に散りばめられた布石を、最低限に拾う思いやりすら欠けている。

プレミスが内包する倫理的な問題は前作『ジュラシック・ワールド』にも少なからずあったが、本作ではさらにお門違いな度合いが増した。もはや、どんな議論を提起しているのかわからない次元に達している。

きわめつけは、リサーチではなくビジュアルを優先させる探求心のなさだろう。このフランチャイズは、オリジナル『ジュラシック・パーク』が打ち立てた「名作」としての価値を完全に見失っている。

問題の中核は、プロットおよび脚本にある。

その説得力のなさに、演出が輪をかけて失望を招いている。

例をあげよう。

※この先は作品の内容に直接触れています。

冒頭、海底探査へ赴く集団の災難を描くアバン(タイトルコール前のコールドオープン)では、身の危険を案じる白人男性に「どうせこのあたりは(恐竜どもなんて)みんなくたばっている」とさとす黒人が登場する。案の定、そこへ海竜が現れて…という展開は、初代『パーク』時のオープニングと、物語的にほぼ同じ機能を果たしている。

ところが、矢継ぎ早に無数の疑問が湧き上がる。探査用潜水艦に、魚影探知用のソナーもないのか? あれだけ単純な作業をこなすのに、遠隔操作が可能な作業艇くらい持っていないのか? もう少し天候の良い作業日を選べなかったのか?

そもそも、シーンが展開していくにつれて、当事者たちが「安全地帯」だと言える根拠が微塵も感じられないセッティングとセリフそのものとのギャップに、混乱する。前作で機能不全に陥った恐竜たちのテーマパーク「ジュラシック・ワールド」の敷地内に、夜の夜中に潜り込んでいる設定のシーンだからだ。

タイトルコール後、ほどなくして「絶滅から呼び戻された恐竜たち」にまつわるニュース映像が飛び込んでくると、このコールドオープンの座りの悪さがさらに重くのしかかってくる。

恐竜たちが、いまも島で生き残っていることを、世界が知っている。

ではなぜ「この(島と隣接する)海域に恐竜はいない」のか? 仮にそうだとしても、そのセリフに説得力を与えるセットアップは、このシーンには与えられていない。

セリフが「一人歩き」しているのだ。

そんな中、この「理屈」にのっとった違和感は、演出の不適切さによって倍加される。

地上から海門を操作するエンジニアは、例によって大型恐竜に追い回され、すんでのところで救われたかと思いきや...。恐竜たちの恐怖を紹介するには犠牲がつきものだから、このシークエンスの狙いは理解できる。

しかし、問題は演出のくどさと、短絡的なサスペンスの組み立て方にある。

背後から迫る大型恐竜をよそに、エンジニアは必要以上に危機感を持っていない。演出上の引きを作るためだけに与えられたキャラクターの言動は、「志村〜!うしろ、うしろ!」の滑稽さを、悪い意味で想起させてしまう。あからさまな演出が、バカバカしく思えてくるのだ。

加えて、観客になんら応援する理由を持たせないまま、エンジニアの一喜一憂をことさらに強調するシークエンスにも疑問が残る。特定のキャラクターに「助かって欲しい」という思いを持たせる前に、「助かるか、助からないかという瀬戸際のサスペンス」を押し付けるのは、不毛だ。

『ジュラシック・ワールド/炎の王国』は、こうした「プロットおよび脚本上の短慮」と「演出上の不手際」の合わせ技にまみれている。『インポッシブル』のJ・A・バヨナ監督とは思えない、全編にわたる粗末な仕上がりだと言うほかはない。

なお、冒頭に述べたコンセプト面の問題についても、要点をあげておこう。

「テーマパーク」へ遊びにきた観覧客に大量の死傷者を出した前作。その一部始終を踏まえて冷静に考えれば、第二作が「一度復活させた絶滅種は再び絶滅させるべきでない」という命題からはじまることはわかる。

だが、本作でその命題を代弁するのはジェフ・ゴールドブラム。前作の当事者ではなかった。

ブライス・ダラス・ハワード演じるクレアが「恐竜保全に打ち込む活動家」というスタンスから第二作のアークをはじめるには、それなりに時間をかけたセットアップが必要だ。本作にはそれがない。結果、恐竜たちの暴走という「人災」を引き起こした加害者の1人として、自らの倫理観を天秤にかけるような多面性が、本作のキャラクターには備わっていないことがわかる。踏み込んで当然の現実性に欠けている。

合わせて、恐竜たちのビジュアルも、やはりコンセプト的に時代遅れだ。

多くの恐竜たちが、鳥類のように羽毛を持っていたという研究結果も主流になった現代。旧来のデザインに固執し、「サスペンスの題材」としか扱われない「ジュラシック・ワールド」の恐竜たちの姿には、科学的な好奇心もなければ先進性もない。

冒頭にあげた「リサーチではなくビジュアルを優先させる探求心のなさ」は、これに由来する。

おまけに、前作からあいも変わらず「恐竜を兵器として活用する」というアジェンダが物語を突き動かしていることにも、要注目だ。無人のドローンで無血の大量殺戮が行われている現代にあって、養殖と訓練に時間も金もかかる動物の軍事利用を追求する非現実性は本来、明白なはずだ。

そんな突飛で非人道的な仮説に乗ったスタジオの感性の鈍さと、ライター陣の説得力に欠ける理屈立てには呆れてものも言えない。


こうした疑問は、あげれば枚挙にいとまがない。もちろん、これらを度外視して楽しんでしまうことはできる。映画館の大スクリーンで見れば、迫力重視で没入することもできるだろう。

このお粗末さ加減を、あえて映画館で確認するのも手だ。

良い映画を楽しむには、底辺を知っておくことも必要なのだから。


[クレジット]

監督:J・A・バヨナ
プロデュース:フランク・マーシャル、パトリック・クロウリー、ベレン・アティエンザ
脚本:コリン・トレボロウ、デレク・コノリー
原作:マイケル・クライトン
撮影:オスカー・ファウラ
編集:ベルナット・ヴィルプラナ
音楽:マイケル・ジアッチーノ
出演:クリス・プラット、ブライス・ダラス・ハワード、ジェームズ・クロムウェル、ジェフ・ゴールドブラム
製作:ユニバーサル・ピクチャーズ、アンブリン・エンターテイメント、ザ・ケネディ・マーシャル・カンパニー、レジェンダリー・ピクチャーズ
配給(米):ユニバーサル・ピクチャーズ
配給(日):東宝東和
:128分
北米公開:2018年06月22日
日本公開:2018年07月13日

鑑賞日
:2018年06月23日22:30〜
劇場:Pacific Theaters Glendale 18

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