【食べ物と思考】一汁一菜と脱成長

土井善晴さんの『一汁一菜で良いという提案』を読んだ。

土井さんはこの本で、日々の暮らしの食事はご飯と具だくさんの味噌汁があればそれでよいと提案をしている。
パッと聞くと、ずいぶんズボラな提案だなと思うのだが、読んでみるとなかなか奥深い。

学校の家庭科の授業では「一汁三菜」と習ったが、あれは戦後に栄養学の考えを取り入れて作られた型であるらしく、日本食には元々主菜とか副菜とかいう区分はないのだそうだ。

毎日味噌汁を作るだけなら時間もかからないし楽チンだと思い早速実践してみたのだが、実際に続けてみるといよいよその奥深さが感じられてくる。

「一汁一菜」は手間を要求しない分、情緒を要求してくるのだ。

味噌汁を作るのに、出汁を取ってもかかるのはせいぜい10〜15分で、確かに手間はかからない。しかし、毎日おかずが味噌汁だけとなると、自然と工夫が必要になってくる。少なくとも前日に食べたものとは違う味にしたいし、家にある具材の中でどの組み合わせなら美味しくなるかを想像しなくてはいけない。シンプルな分、具材の鍋に入れる順番やタイミング、煮加減がとても重要になってくる。
つまり、五感と想像力をとても使うのだ。
だが、わずか10分の間、五感をフルで使って目の前の味噌汁を美味しくすることだけに集中する時間はどこか豊かでもある。

こうした暮らしのあり方は、普遍的な価値があるだけでなく、現代において特に重要な意味がある。
というのも、今の多くの人の暮らしはこうした一汁一菜とは反対の傾向が強い。それは料理に限定したものではない。今は暮らしのあらゆる場面において、情緒を働かせることよりも、やたら手間をかけて“やってる感”を演出することに勤しむ人が多いように感じる。
生活の隅々にまでSNSが入り込み、生活の充実度を数値(いいね!)で相互評価する時代だ。そこでは実質的な充実度よりも外見的な要素が大事になるわけだ。外見で言えば一汁一菜は地味である。しかし、充実とはそもそも内的なものであり、他人に評価される筋合いのものではないのだ。

つまりSNSは本来は内的な充実度を外的な数値に変えてしまったのだ。すると、「充実」は実感を離れた記号的なものになっていくので、人々はいつまでも満腹になることがなく、より多くの「充実」を求めるようになるわけだ。
こうした「成長物語」は資本主義の基本原理と相似形をなす。資本主義は、あらゆるものを数値化することで価値付を行なってきたが、常に成長し続けなければ維持できないシステムになっている。
その結果、様々なイノベーションが起き、世界はこの上なく豊かになった。しかし、現代はその限界が見え始めている時代でもある。温暖化が進み、気候変動は無視できないレベルで進行している。
経済学者の斎藤幸平は『人新世の「資本論」』の中で、マルクスを掘り起こし、「脱成長コミュニズム」が残された唯一の選択肢であると力説している。

「脱成長」というのはなかなか掴みにくい言葉である。
字面だけを見れば、みんなで貧しくなろうということなのか、原始時代に戻ることなのか、と疑いたくなる。
しかし、脱成長とはそうではなく、暮らしに円環を作り出すことだ。
成長とは直線を進み続けることであるが、それは「希少性」によって裏付けられる。やたら手の込んだ料理は希少性を持つ。そして資本主義では希少性に高い価値(いいね!)がつくというわけだ。しかし、希少性を維持し続けるには頻繁なモデルチェンジやアップデートが必要になる。「いいね!」を維持するには無理にでも希少性を作り続けなければいけなくなるのだ。
他方、「一汁一菜」に成長はない。そこには季節と暮らしのサイクルがあるばかりだ。自分一人、あるいは家族を身体的に満足させることだけが目的であり、希少性よりむしろありふれていることが大事になる。

土井さんは、文庫版のあとがきの中で斎藤幸平氏の名前を挙げており、そのことからも「一汁一菜」と「脱成長」が馴染み深いものであることがわかる。
『一汁一菜でよいという提案』も『人新世の「資本論」』もベストセラーではあるが、「脱成長コミュニズム」を実践している人はほとんどいないだろう。それに対して「一汁一菜」は誰でもすぐに実践できるのが素晴らしい所だ。しかもそれが知らぬ間に「脱成長」の暮らしになっているのだからやはりすごいとしか言いようがない。

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