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『演技と身体』Vol.28 世阿弥『風姿花伝』を読み解く③ 秘する演技

世阿弥『風姿花伝』を読み解く③ 秘する演技

「秘すれば花なり。秘せずは花なるべからず」(第七別紙口伝)

『風姿花伝』

「秘すれば花なり」。非常に有名な言葉であり、「芸術は爆発だ」「人には人の乳酸菌」に並んで僕の座右の銘でもある。今回はこの言葉から派生させて“秘する演技”について書いていこうと思う。

花伝書における秘する花

まず風姿花伝の中でこの言葉がどのように使われているのか見てみよう。

見る人のため、「花ぞ」とも知らでこそ、為手の花にはなるべけれ。されば、見る人はただ「思ひの外に面白き上手」とばかり見て、「これは花ぞ」とも知らぬが、為手の花なり。さるほどに、人の心にも思ひも寄らぬ感を催す手立て、これ花なり。(第七別紙口伝)

『風姿花伝』

観客にとって「ここが花だな」とはわからないことが役者にとっての花であり、観客にとって思いがけない感動をもたらす事が花なのだという。そしてその手立てが“秘する”ことなのだ。
第26回の記事で花とは観客にとっての珍しさの感であると解説したが、初めからわかり切っていることに珍しさは覚えないものだ。世阿弥は、常に観客の虚を衝くことを意識していたと思う。例えば、足を大きく振り上げていかにも大きな音が出るだろうと思わせておいて、優しく足を踏む。そうかと思えば、小さな動きから力強い足踏みがなされる。そうやってあらゆるレベルで観客の予想を裏切ることで感動を与えようとしたのだ。

秘する演技

“秘する”ということについては、僕自身にも考えがあって、実は6年前くらいに当時の演技についての考えをまとめた『秘する演技』という文章を書いているくらいだ。
まず演技とは本質的に何かを隠すためのものである。自分の本当の気持ち・本当の姿を隠そうとする時に演技は行われる。だからありのままの自分を表現しようという姿勢は演技からは程遠い。演技とはまずもって自分が何者であるのかということを“秘する”ところから始まるのだ。
そしてドラマとは“変容”である。陰が陽になり、陽が陰になる。秘していたものが開示され、何者かが到来すること。それがドラマである。
だとすれば、他者や世界との出会いによって秘していた自我が開示されてゆく過程こそがドラマなのだということができる。
つまり役者は、自分というものを秘して徹底的に隠し通そうというところから演技を始め、他者や世界との交流を通じて役が変容していく過程において、忘我・恍惚の境地(つまりもはや演技をしない境地)へと到達することで自分が何者であるかを開示してゆくべきなのだ。
しかも、この時に開示される自我は、西洋思想的な確固たる自我・固定的で本質的な自我ではなく、相手や世界との一期一会において実現した刹那的で捉えどころのない、〈自我を超えた自我〉である。それは自分で開示しようとして意思的に開示する意識的な自我ではなく、他者や世界との接触によって否応なしに発現してしまう無意識を含む自我なのである。だから、これは観客の視点からは“何者かの到来”としか言いようのないものとなる。

役者同士も秘するべし

こうした無意識を含む〈自我を超えた自我〉を到来させるためには、役者同士、あるいは役者と監督同士の間にも秘するところがなければならない。無意識は自分の意図を超えたところにおいて発動するものである。するとあらかじめ予定された範囲内のことからは、無意識は絶対に発現しないことになる。
予め相手の気持ちを確認し合ったり、役の気持ちを事細かに監督に確認しようとする役者がいる。もちろん、芝居を成立させる上である程度の確認が必要なことは確かであるが、度を超えて確認し合うことは避けるべきである。それは観客のためではなく、役者自身がただ安心したいだけのように見える。
確かにお互いに隠し事をしたまま演技に臨むというのは、不安かもしれない。しかし、そうした不安は一度引き受ければ力にもなる。相手が一方的に何かを隠しているのであればそれは非対称な力関係を生むことになるが、お互いに隠し合っているのであればある意味ではフェアであり、演技に試合的な要素が生まれる。そう、演技とはある意味で試合なのだ。全てがあらかじめ決められた通りに運ぶだけでは、観ていて面白味がない。そこに不確定の要素が残るから演る側も観る側も楽しめるのではないだろうか。

分かり合えないところに自分らしさがある

そもそも人は汲み尽くせない。いくら言葉でお互いに伝え合っても絶対に相手というものを理解し尽くすことはできないのだ。なぜなら本質的で固定的な自我など存在せず、常に変化し続けるのが人間というものだからだ。たとえ10分前の自分を余すところなく説明し尽くせたとしても、その10分の間で揺らぎ変化してしまう部分が必ずある。
だから事前に完全に理解し合う・確認し合うことは諦めた方が良い。「汲み尽くせなさ・分かり合えなさ」を前提に他者と関わり、共に演じるのだ。むしろ「分かり合えなさ」の中に自分らしさがある。すべてを余すところなく分かり合える世の中というのは相当気持ちが悪い。当たり前だが自分らしさは他者との違いによって生まれるわけで、それってつまり分かり合えない部分にこそ自分があるということだ。
分かり合えないものを無理に分かり合おうとすると、誰かが自分を殺さなければいけなくなってくる。そして多くの場合、自分を殺すのは役者の側なのだ。自分の考えとは違っていても監督に言われてしまったら従わなくてはいけない状況は多い。監督も監督で、何か質問をされたら答えなくてはいけなくなる。
例えば、その役の人物が一度に使うトイレットペーパーの長さなんて監督は事前に決めていないだろうが、もし役者に質問されれば何か答えるだろう。そして、監督がそう答えたら役者はその通りにしなくてはいけなくなる。それなら、初めから役者は確認なんかしたりせず、黙って自分の思った長さを使えば良い。その時、思いっ切り長く使って見せたりしたら、それが監督の目には珍しさと映る場合だってあるかもしれない。
だから、役者は演じる相手にだって監督にだって何かしらを秘しておくべきなのだ。お互いが何かを秘めた状態で演じ合うところに“何事か”が起こるのである。

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