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裏切りのコミュニケーション―書評「シンプルな情熱」アニー・エルノー

 今年のノーベル文学賞を受賞したことで、にわかに注目を集めはじめた(?)フランスの作家、アニー・エルノー。わたしは作家の名前すら知りませんでしたが、たまたま本屋に平積みにされていたのを機縁に、「シンプルな情熱」という一冊を読んでみることにしました。

 手はじめにアニー・エルノーについて語られている記事をいくつか参照してみると、この作家を語るにさいして、しばしば、「オートフィクション」という聞き慣れない単語が散見されます。

 「オート」というからには、(たとえばAIの技術を使うなどして)「自動」で小説が生成されていったのだろうか……?などと思ったりもしましたが、どうやらそういうわけではなく、「自分自身」を意味する接頭辞(auto-)からきているようで、要するに、「私小説」のたぐいだと理解しておけばよいのでしょう。

 さて、となると、異国の知らない作家の知らない(とくに知りたくもない)わたくしごとを描いた自伝的な小説を読んだところで、いったいなにがおもしろいのだろう……?とそぼくな疑問をいだいてしまうところではあります。

 が、あっというまに読み終えまして、結果、これが、おもしろかった。実に、シンプルに、おもしろかったのです。

アニー・エルノー「シンプルな情熱」(堀茂樹訳・ハヤカワepi文庫)

 内容を端的にまとめてしまえば、アニー・エルノーみずからが体験した不倫を「赤裸々に」描いた小説、とまあ、一応はそういうことになります。

 となると、とんだ三文エロ小説のたぐいにも思われるかもしれませんが、ある面においてはそうとも読め、またある面においてはそういうふうでもなく……という、おそらくは、その「振れ幅」こそが、この小説の魅力なんだろうと思ったり。

 たとえば、次の描写。

彼の車ルノー25の二つの音、ブレーキをかけて停車する音とふたたび発進していく音に区切られた時間の持続の間、私は確信していた。これまでの人生で、自分は子供も持ったし、いろいろな試験にも合格したし、遠方へも旅行したけれど、このことーー昼下がりにこの人とベッドにいること以上に重要なことは何ひとつ体験しなかった、と。

(p19)

 こういう、「昼顔」(主演・上戸彩)めいたあけすけな描写があるいっぽう、冷静に、分析的に、じぶんを内省しているさまもしたたかに描きこまれています。

私はまた、彼と何回交わったか、足し算してみたものだ。毎回、新たになにかが私たちの関係につけ加わるように思えたけれど、しかしまた、そのほかならない行為と快楽の積み重ねによって、私たち二人の間が確実に隔てられていくのだとも、私は感じていた。蓄積した相手への欲望を、とことん消費していったのだから。肉体的昂奮の強度が増せば、その分を、時間の持続において失うのだった。

(p22)

 この本の「訳者あとがき」によれば、作家じしんも、「女性誌の「告白」に類するもの」と「情熱(パッション)についてのもっと「古典的な」分析」とを「同じテクストの中に混ぜている」と述べているそうですが、終始、その「ダブルバインド」を絶妙に保ちつづけているところに、この作品の完成度(と作家の力量)があらわれていよう、というものです。

 あるいは、こうもいえるかもしれません。ちょっとした下心から読みだした読者も、知的な関心から読みだした読者も、平等に「裏切られる」小説である、と。

 つまり、この小説は、そうした読者との「裏切りのコミュニケーション」によって成立しているのだ、と。

 ただ、ひとつ思うのは、少なくともこの小説が発表された当時の、約30年前のフランス社会には、やはりある「偏向」が根深く存在していたのだろうなあ、ということ。

 というのも、この「赤裸々な」私小説を書き起こすにあたって、冒頭で作家は、あるポルノ映画へ言及したあと、このような「お断り」を入れているからです。

私には思えた。ものを書く行為は、まさにこれ、性行為のシーンから受けるこの感じ、この不安とこの驚愕、つまり、道徳的判断が一時的に宙吊りになるようなひとつの状態へ向かうべきなのだろうと。

(p9)

 明らかにここで作家は、「道徳的判断が一時的に宙吊りになるようなひとつの状態」を、読者にも求めている。あるいは「強要」しようとつとめてる(と、わたしには、読めます)。

 いうまでもなく、ここでいう読者とは、発表当時のフランスの読者層=知識階級をさしているわけですが、きっと、こうした「お断り」を前もってしておかなければ、なんらかの「反発」にあう可能性があったのでしょう(し、実際、発表された当時、男性を中心にしたエスタブリッシュメントを敵にまわすことになったそう)。

 ここに、フランス社会に巣食った、強固な「階層性」をみる思いがするのですが、はて、それから30年経ったいまでは、そのへん、どうなっているんでしょうね?

 その点、日本は、その道の専門家や研究者が書いた本であっても、子どもからお年寄りまで、富めるものも貧しいものも、ともかくも多くの人びとに本が「平等に開かれた」恵まれた環境にある、ということができます。

 こういう環境のなかで本が読めるというお国柄(この国の教育のたまものと一応は言っておきましょう)に感謝しつつ……アニー・エルノーの別の著作にも手をのばしてみたいな、と思いながら本を閉じたのでありました。


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