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地位とか権威とかについて考える。「消えゆく媒介者」にならないか?

さて、突然だが、最近考えていることについて述べる。

ここしばらくは、なぜか権力や地位とそれが会話に与える影響について思考を巡らせることがある。なお、これらに良し悪しをつけるつもりはない。

もちろん私はお金もなければ、力もないし、地位も名誉もない、しがない大学生なのだが、考える権利だけは、ありがたいことに平等に与えられている。


地位とか権威とかについて

多くの人は専門家の意見には耳を傾けて、それが信頼性の高い情報だと思ってありがたく聞くだろう。当然私もそうだ。逆に、誰だかわからないような素人が「コロナウイルス」やら「新NISA」やらについて熱弁していてもあまり信頼性はないだろう。人によっては陰謀論として片づけてしまう人もいるのではないか?

つまり、話者の信頼性や権威性が、聴衆の受け止め方に大きな影響を与えているということで、「何を話すか」よりも「誰が話すか」に人は耳を傾けてしまいがちである。

これは心理学的にも有名な話で、「権威への服従」や「ミルグラム効果」と呼ばれているもので説明がつく。権威性のある人の話を正しいと思って聞いてしまう心理効果だ。詳しくは文末の参考資料が分かりやすかったのでそれを見ていただけると幸いです。

おもしろいことに、権威、地位、お金は連動しているように見える。どれか手に入れれば、他の物も勝手についてくる。そしてそれらを可能にするのは「運」やら「偶然」だろう。生まれながらにもつ才能や能力だったり、たまたま急成長した業界にいたり、たまたま自分にいい情報や仕事が入ってくるコネクションを築けていたり、たまたま恵まれた家庭に生まれたり。

その運や偶然がもたらした、権威性にありがたく耳を傾けてしまう。
「そうでない人の話はたいして聞く価値がない。。。」
「持たざる者は対等に会話する権利をもちあわせない。。。」
と自然になってしまいがちになるのが人間の本性なのであろう。

裏を返せば、
「後ろ盾無き弱者のみに対等な会話の機会が与えられている。」
のではないか。

国単位や企業単位でみてもそうだろう。
国は軍事力を後ろ盾にしてでしか、会話の機会を持ち出せない。「その気になればいつでも潰せるけど、ここは平和的に会話でいこうじゃないか。」
しかし、圧倒的に聞き入られやすい意見は武力を持つ大国だけだ。脅威で服従できる国が平和をうたったところで、そんな歪んだ平和に人類の希望を見出すことはできないだろう

企業では資本がすべてだ。高い時価総額を誇っていれば、もたらされた権威によってその企業は崇められ、守られる。多くの人に企業のサービスが使われ、支持される。だがその背後に、多くの企業や人の亡骸があることを忘れてはならないと思う。敗者がいないと資本主義は成り立たないわけである。

権威や地位が不必要かと言ったら必ずしもそうではない。権威ある学者や企業のおかげで我々の生活が豊かになったり、便利になったりすることもある。そもそも、最初から権威目当てで、学者や経営者になる人はあまりいないだろう。あくまで、副次的にもたらされたものである側面も否定できない。

それでも、人はどうしても、一度手にしてしまった権威や地位、お金を捨て去ることは容易ではない。離すまい離すまいとして大事に握りしめてしまう。

「100万円を得ることによる喜びと、得た100万円を失う悲しみを比較したとき圧倒的に後者の方が大きい」という心理効果について聞いたことがある人も多いのではないか。人間の性質上どうしても一度得たものは手放したくなくなるものである。

そこから自由になるにはどうすればいいのだろうか。一時的に権威を手にすることはある種、なにかしらの貢献や実績とともに得られるものであり、その点から見れば、輝かしいものと捉えられるが、世の中諸行無常
不変なものはなく常に本質などは変わっていくものだ。時代の価値観に権威が一致しなくなった時に手放す勇気がなければ、社会の新陳代謝を阻害するものとなりうる可能性はある。

権威に関する善悪の判断や考え方は他に委ねるとする。上記でもある通り、わたしは専門家でもなければ、肩書もない小童だ。ここからは、以上の観点を踏まえて、自分が大事にしていきたい権威や地位に対する観点を歴史上の人物を参考にして記録的に残そうと思う。


渋沢敬三「ニコ没」

この言葉自体は、経済学者の成田悠輔氏のとある卒業式のスピーチから知った。(ゴリゴリの権威の言葉)。発想が斬新で考えたこともなかったことをスパスパ言っていて学びになったので、下の参考資料にリンク載せておきます。

言葉の意味について歴史的背景も交えて述べる。
まず「ニコ没」とは「ニコニコしながら没落しよう」の略称である。

どういうことか?

第二次世界大戦敗戦後、日本はGHQというアメリカの組織により占領され、民主化と自由化が進められた。その中で「財閥解体」と呼ばれる、日本の経済を牛耳る大企業グループである「財閥」の解体が推し進められた。その財閥のひとつである、渋沢栄一によって設立された「渋沢財閥」も解体の対象だったが、当時代表を務めていた、渋沢栄一の孫、渋沢敬三の実績や企業の規模の大きさから、GHQに財閥解体を免除するチャンスを与えられた。

しかし、渋沢敬三はこのチャンスを、「世間が受け入れないだろう」として蹴り、財閥解体を受け入れたのだ。自らにより自分たちが作り上げてきた成功や特権を破壊する道を選んだわけだ。全体の利益を考慮し、社会を次の段階にアップデートするために必要な選択だったかもしれない。

これを現代日本社会にあてはめるとどうだろうか?失われた30年と揶揄され、経済停滞が問題視されている。その一つの理由として、法人税減税を促進し、それを消費税増税により賄うことで、富めるものが富み続け、既得権益層を動かしずらいシステムを作ったからかもしれない。本来は退くべき状態にある重厚長大企業を守るために、コストをかけたために、若年層の非正規雇用化が進んだ側面も否めない。

しかし、自分が作り上げた地位や権力、成功を自ら破壊していく行為は容易ではない。たとえそれが社会に害を与えていたとしてもだ。それでもある種自滅に向かう精神を留めておくことが重要だとも思う。薄れつつある日本の渋沢敬三が見せた武士魂を、心の片隅に入れておくことが社会をアップデートする新たな転換点になるかもしれない。

まとめると、自分がした成功や積み上げてきた地位を自らによって破壊する姿勢が、既得権益を壊すことにつながり社会は好循環する可能性もある。だからこそ、自己没落を許容するだけの度胸とプライドを捨て去る勇気は重要視したい

「既得権益」
言語化したら、イメージ化できたので、Photoshopでアート作品にしてみた。
思想強くてドン引き。

フレドリック・ジェイムソン「消えゆく媒介者」

これは「美術手帖」という美術系の雑誌の一説に書いてあった言葉だ。何月号のやつだったが覚えてないが、雑誌の片隅にあった、おそらく他の人にとっては雑誌の構成要素のひとつ程度の文字の羅列が、自分にとっては、強い訴求力を伴って、自分の構成要素のひとつに成り代わりつつある言葉だ。

この人がどんな人かについては良く知らないが、wikipediaによると思想や文学について研究している学者だそうだ。

消えゆく媒介者という概念は「ある行為者がある状態から別の状態への大きな変動や変化の条件をつくり出し、このプロセスが安定するようになると、それが目に見える場面からは消え去っていく運動」である。

これは要するに、自信が触媒となって新しい時代に通じる道を切り開き、最後は自らも消えてなくなる存在を指している。


未だかつてないほど、日本および世界は解決すべき問題にあふれている。

人口問題、食糧問題、環境問題、貧困、格差、、、枚挙にいとまがないわけだが、これらは産業の構造改革を推し進めなければ変革を起こすことができない。変革を起こすために、地位や権力は必要かもしれない。しかし、その改革を権威や地位が阻害してはならないと思う。社会は変わり続ける。その事実をまるっと肯定して、自身が消えゆく媒介者として次の社会への橋渡しをできる存在になれればなと思っている

権威もなければ、非常識でもある流浪人や市民、社会的弱者、子供からのメッセージがだれかの心のかぎづめのような役割を果たし、新たな議論を生み出し、人類の知恵を結集して、前進できるのではないかという淡い妄想上の構図に中二病的ながらロマンを感じてやまない。

参考資料


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