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日本語教育学って何だろう

また、Twitterの足し算。
 日本語教育学について改めて考えた。ディスコース(orディスコース実践)は、そのディスコースの発信先が研究者で考究、探究、実証などが目的の場合に「研究」となる。研究者と称する人が、実践者に向けてする発信は「研究」とはならない。実践者相互のただの実践の共有というのも「研究」とはならない。
 しかし、日本語教育の学会があり、他に留学生教育学会などもある。いずれも、「実践的研究分野」を掲げている学会。で、昨日までは「実践的研究」というのはそもそも矛盾していると思っていた。研究というのは、研究を深めるために、研究者が研究者に対して発するディスコースなので。
 しかし、日本語教育学会、英語教育学会、留学生教育学会など、現にある。そんな「学問分野」では、実践に関心を持つ「実践的研究者」が同様の「実践的研究者」に向けてディスコースを発するということか。日本語教育にせよ、英語教育にせよ、留学生教育にせよ、いずれも「発展を続ける」分野である。
 そんな発展を、現場に直接関係する者や現場をよく知っている者が、さらに冷厳な目で現場や現場の重要部分や現場の周辺などで起こっていることを観察したり、調査したりして、かつクリティカルに、あるいは理論的に考察して、ディスコースとしてまとめ上げれば「実践的研究」となる、ということか。
 「実践的研究」を標榜する人の「研究ぶり」を見るとどうもそんな具合。そんな「実践的研究」を、日本語教育学の傘の下に入れると、日本語教育学は、さまざまな関連領域とさまざまな実践的研究の両者にまたがってかけた傘となるだろうか。
 まあ、それでよいのかなあと思う。ただし、今「出回っている」実践的研究は、「研究(研き、究める)」という名を冠するには、どうもクリティカリティ(冷厳さ)や、理論に基づく解釈などが弱いと思う。また、そもそも、言語の習得をめぐる根幹の理論や、根幹となる堅固な言語観が共有されていない。
 言語の習得をめぐる根幹の理論や、根幹となる堅固な言語観が、そもそも十分に探究、考究されていない。そこが、実践的研究のボトルネック!
 この週末に日本語教育学会(オンライン)が開催されます。(参加申込は終了しています。すみません。) 皆さん、ぜひ能動的にご参加ください。そして、研き、究めましょう!


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