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第二言語教育の「常識」 ─ 基礎日本語教育を考える(8)

 前回は、基礎日本語教育を企画するというテーマで話をしました。今回は、以下です。

5.プランの役割、リソースの役割、学習者の役割、教授者の役割
5-1 プランの役割
5-2 リソースの役割
5-3 学習者の役割
5-4 教授者の役割

 こうしたテーマの話は、実は、前回お話しした「ユニットを企画するにあたっての3つの視点」と大いに関連していますし、5-1は、5-2から5-4と直接に関連しています。

5-1 プランの役割
 プラン=企画の役割は、以下の4つです。

(1) 学習者と教師がコース全体のねらいや最終の目標がわかること。
(2) 学習者と教師が各ユニットのねらいや目標や内容が具体的にわかること。
(3) ねらいや目標の達成のための営みが学習者主導になり得ること。そして、教師が、ねらいや目標を達成するために努力する学習者を強力に支援する者になり得ること。
(4) ねらいや目標を達成するための筋道に関して、学習者の学び方や教師の習得支援の仕方に自由度があること。

 まず、(1)と(2)が、揺るがすことのできない第一の企画の役割です。企画あるいはそれを説明した企画書の第一の役割は、ねらいや目標や内容を、まず学習者に、そして教師に知らせることです。企画の説明を受けて、当該のコースの修了時に何ができるようになる(ことが期待されているの)か、何ができるように教授活動を展開しなければならないのかが、明確にわからないようでは、それはそもそも企画になっていない、とも言えます。ねらいや目標などをずらずらと記述すればいいというものではありません。そもそもの企画自体がわかりやすい企画になっていることが重要です。そうした点で、表現活動の日本語教育の企画は有利です。なぜなら、例えば表現活動の日本語教育の基礎段階の自己表現の日本語教育では、コースの最終の目標は「○、△、×などの話題について、自分の話ができ、相手の話が理解でき、会話できるようになる」というような形で、各ユニットのねらいは「▲の話題について、自分の話ができ、相手の話が理解でき、会話できるようになる」というような形で、記述すればそれですむからです。(書記日本語教育については別途記述する必要がありますが。)
 そして、次に、(3)が来ます。つまり、企画でねらいや目標をはっきりと学習者に伝えることができれば、コーディネータも教師も「このねらいや目標を達成するために努力するのはあなたたちですよ!」と言えます。そして、そのように言えるようになってこそ、教師は、ねらいや目標を達成するために努力する学習者を強力に支援する者になることができるのです。
 さらに、(4)です。コース全体のねらいや目標、各ユニットのねらいや目標がはっきりと把握された上は、それらを達成する筋道や学び方や習得支援の仕方などは、自由度があってよいし、あるべきだと思います。達成の筋道が固定的になる企画、特定の学び方を強要する企画、特定の「教え方」しか考え得ない企画は、優れた教育企画とは言えないと思います。

5-2 リソースの役割
 リソースの役割は、大きく以下の3つです。

(1) ユニットのゴール(ねらいが達成された状態)の範例を示す。
(2) ユニットのゴールを達成するための学習のための「頼りになる資材」になる。
(3) 習得支援のための「頼りになる資材」になる。

 5-1の(2)で「各ユニットのねらいや目標や内容が具体的にわかること」と言いましたが、ねらいや目標などを言葉で説明してもなかなかわかるものではありません。リソースは、ユニットのエンドで何がどのようにできるようになるのか、ならなければならないのかを、具体的な形で示すものとなるべきでしょう。もちろん、すべてのリソースがそうである、そうなるべきだということではありませんが。
 (2)で言っていることは、教師の助けがなくても、リソースを頼りにして学習者自身でかなりの程度ねらいや目標達成のための学習ができることです。教師の助けがないと学習ができないものは、リソースとも言えません。
 (3)は、(2)であると同時に、同じリソースで、教師による習得支援が強力にできるものが期待されるということです。日本語の先生は、授業をするにあたって、自分の授業独自に補助教材を作成して授業を実施するのを好む傾向がありますが、各教師がめいめい独自に作成する補助教材は、しばしば学生をただ混乱させます。基本としては、(2)と(3)の役割を担い得るリソースを準備して、学習者が学習するときも、教師が習得支援をするときも、同じリソースを使うというのが、学習者の日本語上達を堅実にする秘訣だと思います。あれこれ補助教材やPPTなどを作成して授業を実施するのは、多くの学生にとっては「また違う教材か!!」と辟易するばかりです。

5-3 学習者の役割
 5-1のようにねらいや目標を明確に知らされた学習者の役割は、自身の日本語の上達に責任を持つことです。これまでの日本語教育では、ねらいや目標が学習者に明確に伝えられていないために、学習者に日本語上達の責任を負わせることができませんでした。そして、そのような状況のために、教師が「自身のうちに『秘めている』ねらいや目標」を達成するために、獅子奮迅の努力をしてきました。すべて、企画がまずいのです。
 企画で5-1の(1)と(2)ができていれば、教師は「あなたたちこそが、あなたたちの日本語上達の責任を持たないといけないんだよ!」と言うことができます。そして、そのように突き放したように言った直後に、「わたしたちは、そのようなあなたたちを全力で支援します!」と教師は宣言することができます。これが、子どもではなく、成人の場合の学習や教育の当然の基本的な形態だと思います。(実際には、子どもの場合でも、同様ですが。) これまでの日本語教育ではそもそもの(1)と(2)の部分が達成されていませんでした。

5-4 教授者の役割
 最近は、まるで流行(はやり)のように「教師の主要な役割は教えることではなく、学習や学習活動をコーディネートすることだ!」と言われます。筆者の立場から言うと、学習や学習活動の基本部分をコーディネートするのは教育企画の役割です。教室に居る生身の教師は、自由自在に即興が効く立場において、日本語が上達したいと思って教室に来て授業に出席している学習者たちにおける日本語の習得を強力に支援する役割が求められていると思います。詳しくは拙著『新次元の日本語教育の理論と企画と実践』の第2章あたりを見てほしいですが、基礎段階の日本語教育では、教室にいる教師の重要な役割は、学習者に話題の言語活動を運営することに関与する言葉遣いを摂取する機会を豊富に提供すること、別の言い方をすると、学習者を言葉遣い摂取的な受容活動に豊富に従事させてあげること、こうした役割が重要だと思います。庭の水まきをするときに、桶に水が入っていないと柄杓で水をすくってまくことができないのと同じように、学習者に言葉遣いの蓄積がないといろいろな言葉遣いを引き出して話すことはできません。これは、あまりにも明白なことではないでしょうか。

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