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親友アレルギーだった私が改心した事件

昔から「ものの言い方」に反応する性質がありました。そのなかで、幼いころに感じたゾワゾワした違和感表現を今でも覚えています。

「わたしと〇〇ちゃんは親友なの!」

「親友だよね」

「ねー!」

うげ、と感じました。幼稚園だか、小学校の教室でだか…。そういう親友ラベリングをしている同い年の女児たちを白い目で見ていました。親友って安い言葉なもんだな、と。

だって矛盾している、あの子もこの子もみんな親友!とその子は言うわけだ、それは友達であって親友なのか?親友って複数形になるものなのか?あときみ、その親友とやらに日頃なにしてる?先日仲間はずれにしてなかったっけ?悪口言ってたよね?

行動と発言の不一致。教室に溢れかえるその醜悪な層の重なり。気持ちが悪いので、基本的に教室では1人でおり、または男児たちとぎゃいぎゃい遊んでいました。同性は不気味だった。言行不一致のオンパレード、どこに地雷を潜ませてるんだかわかったもんじゃない謎ゲーム。

わたしに親友とやらは出来ないだろうな、そもそも親友の定義がわからん、そう思いながら、勉強自体楽しかったのと、先生に恵まれたことと、職員室があたたかく迎えてくれたこととで、わたしは小学校自体には楽しさを覚えて通っていました。


ある日、クラスメイトで仲良くしていた男の子が見知らぬ女の子を連れてきました。たしか学校ではなく、学校帰りに彼の家のそばで遊ぼうとなった時。彼の家の前のアスファルトの上。

「俺ん家のとなりに引越してきたの!クラスとなりなんだって」

ふっくらと滑らかな頬と、つやつやしたボブヘアにカチューシャでおでこを出した小さな女の子がにっこり笑ってこちらを見て言いました。

「一花です、よろしくね」

転校生!

転校生という珍しい生き物に遭遇したのは初めてでした。引越し、転校、実家が農家の私にはまず起きえない憧れのイベントを体現している存在との遭遇。小池は昔から背の順でほぼ一番後ろだったので、見下ろす気持ちで対面しました。

イッカ?珍しい響き、苗字?名前?とか考えてると、

「ひとつの花って書いて、イッカって言うの。珍しい苗字でしょ。」

心を読まれてるかと思った。


クラスが違ったので、学校では会えるのは廊下でたまたま会った時だけ。会えた時、「いっちゃん!」「ゆーこちゃん!」と声を掛け合うことが増えてゆく。振り向いた彼女の可愛らしい頬の丸み、揺れる髪、笑顔。

学校の行き帰りを一緒にし、放課後遊んだりすることが増え、お互いの家に行き来し、家族に紹介し、お互いの親兄弟祖父母の顔を覚えてゆくようになった。そうして半年か、1年か。学年が変わった。

5年生に進級するときにはクラス替えがある。こんなにドキドキと運命を期待するクラス替えは後にも先にもなかった。

体育館で各クラス背の順に座りながら、1組のわたしは2組のいっちゃんの後頭部をぼんやり見ていた。クラス分けの発表が始まり、わたしの名前が呼ばれて程なくして、彼女の名前も呼ばれた。見つめていた後頭部が揺れ、ばっとこちらを振り向いた彼女は満面の笑顔で、一緒に立ち上がって「4組」の待機列に向かった。

同じクラスになれた!同じクラスだ!!

卒業まで2年間、いっちゃんと同じクラスだ!!

ものすごく嬉しくて、ニコニコしたのを覚えている。

そして出来上がった4組の待機列、その前にすっと現れた女性教師は世良先生と言って、のちのち大変運命的な存在となるのだけれど、それはまた別のお話。かっこいい先生って実在するんですよ。

話を親友アレルギーに戻そう。

同じクラスになってからのことだ。何かのタイミングで、いっちゃんとわたしとほかの女児クラスメイトたちとで話していた時に、例の親友トークになった。

わたしは、いっちゃんのことは大好きになっていたし、そもそも毎日会って一緒にいたいと思うのは彼女だけだったけれど、どうにも昔発症した親友アレルギーから彼女にその名称を付与するのは気持ちに引っ掛かりがあった。ので、あえて口に出すこともしなかった。彼女を親友と呼んでしまうと、彼女を安く扱ってるような気持ちになってしまうと感じていた。名前を大切に呼べればそれで充分だったのである。「いっちゃん」、それはわたしにとって特別な響きである。それで良いと思っていた。ので黙っていたところ、いっちゃんがこう切り出した。

「わたしの親友はゆーこちゃんだよ!親友以上、家族同然だよっ」

わたしにではなく、周りにいる子達への宣言のようにそう言ったいっちゃんは、言い終えてから私を見てにこっとした。彼女はわたしに同意は求めなかった。ただ彼女は、わたしをそう認識している、という宣言。その時わたしは、うん、と応えるのが精一杯だったように思う。

同じ言葉でも、その内容と価値を決めるのはわたしなのだとその時知った。彼女の口から出る「親友」は、彼女がわたしを安く見ていることを表している言葉だろうか?それはちがう。ちがうとわかるのは、彼女が日頃どんなふうに言葉を使い、わたしと接し、わたしにどんな姿を見せてくれているかを、わたしがどう認識しているのかという点に依拠している。ひとの言葉を信頼するのは、その人を信頼しているからだ。言葉が単品で踊っているのではない。言葉は、誰が使うかでその重さと意味さえ変わるのだ。

人生で彼女と物理的な接点が多かった時期は、なんだかんだで5年に満たない。しかし、「この世にたった1人、信頼できて、話ができる友達がいる」という実感は、その後彼女と進路が別れてからも、わたしが別のコミュニティのなかで対人関係を築いていっても、彼女と連絡を密に取らなくても(その当時携帯はモノクロだったしLINEなんて影も形もない)消えることなく心の中に居続けてくれている。それは、彼女がわたしの持ってた親友アレルギーを、笑顔でぶち壊してくれたからにほかならない。たまらなく魅力的で、意思の強い笑顔だ。

そんな彼女と出会ったのは人生1桁の時代。1桁の頃に既に、わたしは世界にいる意味を獲得できたのだと、今でも会うたびにわたしは思うのだ。わたしもだよ、と、また強力な笑顔で頷いてくれる存在。

いっちゃんはいま、声優になる(声の仕事をする)夢を叶え、日々精力的に取り組んでいる。先日、朗読劇で星の王子さまのきつね役をやっていたので、こういう話を書きたくなったのかもしれない。https://twitter.com/SolamenteFiore

昔から、文章を読むのがとっても上手なんですよ、彼女は。

出会ってからこのかた、彼女はわたしにたくさんのことを気付かせてくれるのだけど、今回はここまで。

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