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アフター・ヤン 記憶を巡る果てなき問いかけ

 記憶をすこしでも失ってみたら分かるはずだ、記憶こそがわれわれの人生をつくりあげるものだということが。記憶というものがなかったら、人生はまったく存在しない……記憶があってはじめて、人格の統一が保てるのだし、われわれの理性、感情、行為もはじめて存在しうるのだ。記憶がなければ、われわれは無に等しい……

 ――ルイス・ブニュエル

 コゴナダ監督の『アフター・ヤン』は、フレッシュな魅力と独創性を備えた、A24らしい作品だ。加えて、監督自身の映画や文化への愛、そして自身の出自を反映させた自己言及的な作品という側面も持っている。小津映画へのオマージュや関連性は多くの人が書いているため、別の視点で僕なりの解釈を書いてみようと思う。

 『アフター・ヤン』の舞台は未来。そこでは〝テクノ〟と呼ばれる人型のロボットが、一般家庭に普及している。本作は、テクノのヤンと彼を使っていた家族の物語だ。(なお、原作はアメリカの短編作家、アレクサンダー・ワインスタインの『Saying Goodbye to Yang』)
 白人の父親ジェイクと黒人の母親カイラに養女として迎えられたミカは中国系で、ヤンのことを兄のように慕っている。ジェイクとカイラはミカの母国である中国の文化を教えるため、ヤンを中古で購入し、教育をまかせていた。
 しかし、ある日ヤンは故障し、動かなくなってしまう。ミカは嘆き悲しみ、ジェイクはヤンをなんとか修理できないかと奔走する。その過程で、ヤンには〝memorableと判断した、数秒程度の記録を保持し続けられる〟という、過去に禁止された機能を備えていたことが分かる。深夜、ジェイクはヤンの残した記録映像を見ていると、自分たちの映像以外に、ヤンとの間に親密さが伺える女性の映像や、以前の持ち主の映像が残っていることに気がつく……。というのが物語の概要だ。

ビジュアルについて

 この映画は、簡単な言葉で表現してしまうと、お洒落なのである。とんでもない家にすんでるなー、と思う。というか、お洒落という次元を超えて、強固な美意識や並々ならないこだわりを感じる。コゴナダ監督は「映画には〝場所の感覚〟が付随する」と話す。前作の『コロンバス』で建築とただの背景として使用するのではなく、人物の心象風景としても機能させていた。舞台となる場所は、監督にとって非常に重要なものなのだろう。細部に渡り綿密な設計がされていることが、パンフレットを見ると伺える。

 メタフィクション、すなわち映画の映画

 個人的に、僕は〝映画の映画〟が大好物なのである。この映画もまた、そういった類いの映画なのだと思った。ジェイクがヤンの記録を観ているということ、それは映画を観ているということに非常に近い。というか、映像を通して、誰かの人生を見ること。そしてそれに心を動かされること。これは映画を観ていることとなんの大差もないと僕は思う。(劇中でも、ミカに「何しているの」と聞かれて「ドキュメンタリー映画を観ていた」と回答している)
 本作のラストシーンは、カウチに座るジェイクと娘が、われわれ観客と向き合うカットで終わる。なんと、終わる瞬間、映像が止まるのだ。(ストップモーションではなく、再生されていた動画が停止したように止まる)僕たちもまた、ジェイクのように映像を通して誰かの人生を観ている、ということだ。このようなメタフィクションの層が、作中劇という2層だけでなく、〝この映画を観る観客〟にまで到達している。これはなかなか凄いことだと思う。

 哲学的な問いかけ

 冒頭に記したブニュエルの言葉は、『妻と帽子をまちがえた男』という、神経学者のオリヴァー・サックスの本で引用されていたものだ。まさに『アフター・ヤン』のテーマそのものではなかろうか。
 memorableな記憶/記録を残し、鏡と向き合い、自分とはなんだろうと自問自答するヤンは、われわれ人間と何が違うのだろう? 人間の脳だって、電気信号で情報を伝達している。有機的な機械と言っても、過言ではないと思う。では、人間を人間たらしめているものは何だろうか? 自分とヤンは、何が違うのだろうか? この映画を観終わったあと、このような問いかけがぐるぐると頭の中を回って離れなかった。

接ぎ木するという考え方

 劇中でヤンがミカに話す、〝接ぎ木〟の考え方が、この映画の核をなしていると言えるだろう。
「見てごらん。素敵なことが起きてる。ほら、この枝は違う木から出てる。でも今は同じ木なんだ」
 これは白人の父と黒人の母を持つ中国系の自分、という複雑なアイデンティティを持ち、同級生からそのことを揶揄されたときに、ヤンがミカに対して語りかけた言葉だ。この接ぎ木の概念が、個人を苦悩から救い、文化や歴史を紡いでいくことに繋げるという重要な考え方だと僕は思うのだ。
 さらに、ミカだけでなく、ジェイクもカイラもヤンと会話することで、影響を受け、受け継いでいるものがある。これも一種の心的な接ぎ木だろう。そのように、家族と接することで、ヤンもまたこの家族に接ぎ木されている。監督だって、母国ではない国に接ぎ木された存在だ。さらに言うなら、映画作品、いや、人が作るものは、文化や芸術という大きな樹への接ぎ木なのだ。

 自分とは異なる国や文化でも、繋がることができる。この映画のラストシーンのように、現実と虚構だって接ぎ木はできる。それって、すごく素敵なことだと、僕は思う。

 はっきりした起承転結や、物語的な起伏もなく、映画的カタルシスも感じにくい。もしかすると退屈な空気が漂っていると言えるかも知れない。僕は、この映画は、観客のために、というより自分のために作った、という要素の方が濃いと感じた。監督が自己のセラピーのためにこの映画を作ったのではないか? と推量してしまう。そのような作品特有の、言いようのない切実さを、僕は感じるのだ。


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