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NASAの歴史4:ISS(国際宇宙ステーション)

前回はNASAの歴史ではやや苦いプロジェクトにあたる「スペースシャトル計画」を紹介しました。

今回は、国際情勢が絡んでより複雑化なプロジェクト「ISS(国際宇宙ステーション)」について掘り下げたいと思います。
※タイトル画像Credit:NASA - https://www.flickr.com/photos/nasa2explore/51749924967/in/photostream/;

ちょうど先日、ゴルバチョフ氏が91歳で亡くなりました。1つだけ彼の性格や当時のソ連崩壊までをふれた記事を引用しておきます。

ゴルバチョフ氏の評価は、誰からかによって割れると思います。上記記事文中にあるように、プーチンはその甘さがウクライナ問題を引き起こしたと主張します。

ゴルバチョフ氏がどのようにISSに影響を与えたのかは後で触れますが、そもそも、人類が長期間宇宙に滞在することを目指した「宇宙ステーション」の歴史は結構古いです。

NASA関連でいえば、1960年代から計画が進められ、ポストアポロ計画ととして、スペースシャトル計画と時期を共にしています。
結果として予算緊縮の影響でスペースシャトル計画を優先することになり、時期は後ろ倒しされます。

ただ、比較的低コストで実現出来るミニ宇宙ステーション「スカイラブ計画」は、なんとか1973年に打ち上げ成功しました。4号まで順調に打ち上げられ、宇宙飛行士は最大84日間の滞在に成功します。(当時の世界記録)

スカイラブ計画の成功で、本格的な宇宙ステーション計画に乗り出します。ところが、その建設方針をめぐってNASA内でも議論が割れます。
今まで触れませんでしたが、NASAは全体の主導は担うものの、各論は複数の主要センターからの意見もくみ取ります。
その中で比較的影響力が大きく、真逆の方針だったのが、「マーシャル宇宙センター」と「ジョンソン宇宙センター」です。

前者は小さく初めて段階的に部品を組み立てるやり方、後者はアポロ計画の成功に倣って初めから大きく進めていく方針を主張し、1970年代はそれぞれがそれぞれの関連企業と計画を練るという膠着状態でした。

風向きが変わったのは、1981年に就任したレーガン大統領です。
俳優出身で「強いアメリカ」を目指したややマッチョ志向な方です。

レーガンは、NASA長官に民間宇宙産業で経営を担っていたジェームズ・ベッグズを指名し、彼が上記の2センターの構想を統合して具体化していくことになります。
1984年にレーガンが行った、
「人が生活することのできる宇宙基地を、10年以内に建設する」
という声明は有名です。(おそらくアポロ計画を意識した言い回しだと思います)

当時はまだ米国内は予算緊縮の風潮でしたが、実は当時のソ連は1980年代から宇宙ステーション「ミール」の計画を進め、1986年に打ち上げに成功したことも実行の後押しとなりました。(この辺りはアポロ計画と同じパターン)

ただ、従来と異なるのが、資金確保とソ連に対抗する仲間づくりのために、他国へも呼びかけたことです。
1985年にESA(欧州宇宙機関)、カナダと日本がそれに続き1988年に政府間協定が結ばれることになります。

ここはある意味歴史の変曲点とも言えます。

従来は、アポロやスペースシャトル計画に代表されるように基本的には米国単独で行ってきました。
宇宙ステーションは、計画段階から他国との協調路線で進めることになり、そのマネジメント方式も変わってきます。

しかも、NASA内でも上記で触れた主要センター間の方針衝突もあり、なんとか利害を配慮して業務担当を振り分けたものの、NASAはより複雑な管理体制になっていきます。

この辺りは、前回のスペースシャトルで指摘された官僚化した問題点にもつながっていきます。
1986年に起こった「チャレンジャー号事故」で、ISSの開発体制の見直しにも波及しました。
過渡に複雑化した各センター業務の全体を見渡すため、NASA内に権限・一部業務を集中するコントロールタワーを置いたのですが、それに伴うテキサス州の雇用減(後に大統領となるブッシュ氏の支持基盤)による反対もあって、中途半端な改革となりました。

米国内議会はその膨大な費用に反対の声が多かったものの、何とかレーガン大統領着任の間に「フリーダム計画」と呼ばれる今のISS原型プロジェクトが発表されます。

次のブッシュ大統領、クリントン大統領でもその費用への見直しが度々おこなれていきますが、それでもISSに繋がっていったのは「ソ連の動向」が決定打となります。

当時のソ連は、1980年代に宇宙ステーション「ミール」(ちなみに「平和」を指す単語)をスタートしたものの、共産主義国の綻びが遂に崩壊し、1989年のベルリンの壁崩壊やバルト三国の独立、そしてついに1991年にはソ連自身が崩壊することになります。

その政治的な激動の中心にいたのがゴルバチョフ氏です。

以前にもアポロ計画後に軍縮時代を迎えた、と触れましたが、それを表す重要な会談が、1985年のレーガン大統領とゴルバチョフ氏(当時共産党書記長)との間で行われました。記事を1つだけ紹介しておきます。

ソ連崩壊後には、ブッシュ大統領とエリチィン(ロシア)大統領とで会談が行われ、お互いの宇宙船への相互乗り入れを進めることになりました。
冷戦の時代ではなかなか考えられない決定です。

ロシアから見ても、ミールの後継機への予算繰りがうまくいかず、また1991年のウクライナ独立(宇宙開発で重要な役割だった)もあり、ついに1993年に米国の宇宙ステーション構想に参画する決断をします。

実はその布石となる計画が過去にありました。

遡ること1970年代に、前回触れた米ソ緊張緩和(デタント)の流れで、お互いの宇宙船をドッキングさせる「アポロ・ソユーズ計画」が行われたことがあります。

実際に両国が宇宙で握手をする記念の動画があるのでぜひ見てほしいです。素直に感動します。

これらの実績もあったので、初動は円滑に進められることになります。

現在のISS全体図は下記のとおりです。

出所:JAXA(https://humans-in-space.jaxa.jp/iss/about/config/)

ちょっとごちゃごちゃしてますが、だいたい地上400kmの高さで、全体はサッカー場ぐらいの大きさと思ってください。

まず初めに打ち上げられたのが中央やや左に見える基本機能モジュール「ザーリャ」です。1998年のことです。
名前から想像つく通りロシアが製造し、その資金を米国が賄いました。
(お金を出したスポンサーのほうが強いということで米国の所有物です)

その後、前述のスペースシャトル事故で中断時期はありましたが、2011年のモジュール追加で基本的な建設は完了しました。(以後も追加はあり)

右下にある「きぼう」が日本所有モジュール箇所で、スペースシャトルに搭乗した日本人宇宙飛行士によって組み立てられています。

出所:JAXA(https://humans-in-space.jaxa.jp/kibo/)

その2011年におけるISS完成を待って、スペースシャトルは引退となります。(言い方を変えるとそれまでは延命させていました)

但し、ISSの持つ意味合いも、企画時の1980年代から変質してきました。

当初は、冷戦終結の象徴でしたが、2001年9月に米国で起こった同時多発テロ事件や、近年だとアフガン撤退に代表されるように、今は米国が世界警察を担う時代ではもはやなくなっています。

そこで、ブッシュ大統領の時代に、ISSの位置付けをリニューアルします。
ちょっと長いですが、2004年当時の新宇宙政策要旨を引用しておきます。

1.国際宇宙ステーション(ISS)を2010年までに完成させ、15ヵ国の国際パートナーへの責務を完遂する。ISSでの研究は、長期の宇宙飛行に関する医学・生物学の研究に焦点を合わせる。
このゴールを達成するために、コロンビア号事故調査委員会(CAIB)の勧告や安全を考慮した上で、できるだけ早くスペースシャトルの飛行を再開させる。今後数年間のスペースシャトルの目的は、ISSの完成を目指すことになる。そして、2010年におよそ30年の歴史を終え、スペースシャトルを引退させる。

2.2008年までに新しい有人探査機(Crew Exploration Vehicle: CEV)の開発試験を行い、2014年までに有人飛行を行う。
スペースシャトルが引退した後は、ISSとのクルーの往復にCEVが使われるだろう。
CEVの主目的は、地球軌道を越えて他の世界に宇宙飛行士を運ぶことである。これはアポロ宇宙船以来の宇宙船となる。

3.早くて2015年、遅くとも2020年までに、有人ミッションによって月に戻る。 2008年までに一連の無人月探査を行い、将来の有人探査の準備を行う。月面に拠点を確立することはより多くの野心的なミッションを生み出し、宇宙探査のコストを下げることが可能になる。
月の上で知識と経験を得ることで、宇宙探査の次のステップに向かうことができる。

https://iss.jaxa.jp/topics/2004/040115.html

何となく気が付いた方もいると思いますが、まさに「アルテミス計画」をにおわせる有人宇宙探査へ舵を切りました。

ただし、ISSがその方針を堅持するのは難しくなっています。
今は運用を民間に委託しようとしており、ロシアはISSからの撤退を正式に表明しています。

NASAの歴史というよりは、ISSを取り巻く国際情勢の話が多くなってきましたが、国際・国内政治にNASAが振り回されたのは間違いないです。
むしろ、そんな厳しい外部環境でも計画をやり遂げたオペレーション能力と調整能力は相当ハイレベルなものだったと想像します。

下記にそれを率いたNASA長官一覧が乗っていますが、そのバックグラウンドは多様です。

そして、今まではお茶の間の話題になりやすい「有人宇宙飛行計画」だけを切り抜いて紹介してきましたが、純粋な宇宙開発の進歩にも多大なる貢献をしています。

次回は、科学技術の視点から見たNASAの歴史について触れてみたいと思います。

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