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価値観が揺らがなくなることへの恐怖

ある程度の年齢(私は35歳前後かなと思ってる)を過ぎると、自分の中の当たり前に蝕まれ、価値観が揺らぎにくくなるような気がしている。

でも時代は進み続けているわけで、価値観が止まったままだと当然置いて行かれる。

この年末年始だけでもそれを感じることが本当に沢山あった。


直近で興味深かったのは、紅白歌合戦に出場した瑛人さんがあるバラエティ番組で「紅白歌合戦が男女で組分けしていると知らず、自分は何組ですか?と質問してしまった」というエピソードを紹介されたもの。

紅白歌合戦はずっと観ていたけど、男女の組分けだと意識して見たことがなかったそう。

それに対して年長の出演者が「紅組なわけねぇじゃん!笑」と突っ込み、瑛人さんの"天然エピソード"として笑いにしたのだという。

それだけであれば私も「へぇ、そうなんだ。瑛人さん、天然で面白い人なのね」くらいにしか思わなかったかもしれないが、ビックリしたのは、この内容が紹介されたツイートには「私も知らなかった!」「初めて知った!そうなんだ!?」「うわ!そう言われてみたらそうだな」という若い人達のリプライが沢山ついていたこと。


そうか。紅白を観ていても、男女で組分けしてるって思わなかったのか。

そもそも今の若い人たち(←ザックリした言い方ーーーー)は、男女で分ける、ということが私たちの時代ほど当たり前にはおこなわれてこなかったのだという内容のリプライも見かけた。

なるほどなるほど。

だとしたら「私は何組ですか?」と質問する瑛人さんを「紅組なわけねぇじゃん!笑」と突っ込んだシーンの構図が全く違って見える。


"知らない"のはどちらか。


男女で紅白に組分けをするという感覚が決して当たり前ではなくなってきているのに、古い当たり前を盾に相手を嘲笑することは、すごく恥ずかしいことなのではないか。

念のため言っておくと、私は男女に組分けすることが良くないと言っているわけではない。

旧来の当たり前がこれからの時代を作っていく人たちにとっても勿論そうであろう、そうであってほしいという烏滸がましさが嫌なのである。


若い人たちが感じた違和感に対して「社会ってのはそういうものでね」とか「まだまだ無知だね」とかドヤってるとき、実は時代に置いていかれてるのは自分なのかもしれないと疑うことができるか。

これまでの常識がこのままでいいのか振り返るきっかけにできるか。

そういった意味で、年末に盛り上がりを見せた「お母さん食堂」というネーミングに対する署名運動は大変素晴らしかったと思う。

なんと高校生たちが声をあげたのだというではないか。頼もしさと共に、大人として自分達が動かなかったことへの情けなさも感じながら署名サイトへ飛んだ。

そこには自分が嫌だからとか傷つくからという「オキモチ」などではなく、きちんとこの件を社会構造の問題として捉えた訴えが書かれていた。この国のジェンダーロール固定化に繋がる表現を一つでも減らそうという内容が明確に説明され、そこに大手コンビニチェーンとしてどのように社会を変革・先導していってほしいのかということが書かれていた。

はぁぁぁぁぁ素晴らしい!時代はここまで来たのか!と感動し、すぐに署名した。

しかしこれを受けた大人たちはどうだったろう。

タイトルに反応し、正しく内容を読むこともせず、汚い言葉で罵るリプライが山ほどついているではないか!

「自分の家ではお母さんが料理しないからと言ってお母さん食堂という言葉に傷付く方がおかしい」という書かれてもいないオキモチの話に変換するものや、「だったらお父さん食堂も作って豪快な男メシを売ればいい」「香取慎吾がママの格好して出演してるんだからバランスは取れてるだろ」というまさにそれこそがジェンダーロールの強化だろというもの、「お母さんのごはん美味しいって言ってもらえたら私は嬉しいです」という謎のオキモチ表明、挙げ句の果てに「何でも言葉狩りしだすと息苦しい」という己の全集中の呼吸最優先のご意見まで。


「お母さん食堂」というネーミングであってもジェンダーロールの植え付けにはならない理由を今の日本の社会構造と照らし合わせて答えているものが見当たらず驚いた。もう議論にすらなっていないのだ。

高校生たちの純粋な声に対して、あまりに真摯でない大人達に、絶望しかなかったし、同じ大人として申し訳なくなった。(あ、もちろん真摯に向き合っている大人もいましたよ!)

嫌がらせのつもりでリプライしているのだとしたら最低だが、もしよかれと思って、自分の価値観だけで高校生たちに"諭して"あげようとしたのならば、なんて滑稽だろうと思った。

"見えていない"のはどちらか。

年長者のもつ「お母さん」に付随するイメージに対して若い人たちが違和感を持ったのだ。
何故ですか?本当にそうですか?それでいいのですか?と。
何故その純粋な想いときちんと向き合わず自分達の価値観で説き伏せようとするのか。


ちなみに私個人の話をすると、正直ネーミングはどうでもいい。「お母さん食堂」と言われたところで私自身が強迫観念で料理することはないし、近くにファミマはあるが我が家は息子も料理をする。

しかし社会全体のことを考えれば「お母さん食堂」というネーミングは今すぐ取り下げる必要まではないものの好感が持てるかと言われれば否である。"お母さん"という響きを単にノスタルジーとして慈しもうにもこの国のジェンダーギャップを見ればそれもまだ時期尚早な気がする。

もし今後ネーミングを変えるタイミングが来たときには、社会を一歩も二歩も先取りしたような、社会全体を引っ張っていってくれるようなものでお願いしたい。そういうことに注力している企業は既にたくさんあるし、国際的にも評価の対象となっているのだから。

そして何よりもまずは、高校生たちの意見と真摯に向き合ってほしい。昨春に同内容の手紙を出した際は返事すらなかったとのことなので。←ここ結構重要だと思うのよ。ブルボンを見習ってもいいと思うのよ。


そんなこんなで、ここには取り上げないけれども日々さまざまな問題を見聞きするにつけ、自分の価値観が凝り固まることへの恐怖が募る。

別に流行を取り入れて時代の最先端を走っていたいなどとは思わないが、少なからず、新しい社会を作っていく人たちの足を引っ張らないようにしなければと改めて思った。自分の年長者ならではの経験はそういう人たちの応援に使えるようになりたいとも思う。


そんな、39歳を迎える2021年の始まりのお話。

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