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泡と煙

 傾けた缶から落ちる液体が、その流れを絶やした。喉を過ぎるのはアルコールを含んだ吸気ばかりで、そのことが惜しくて堪らなかった。オンラインゲームに興じる隣人の声に邪魔されぬよう、あの壁の薄い安アパートの自室から三百五十ミリの僅かな楽しみをせっかく連れ出してきたというのに。
 普段は人気のないこの坪庭ほどに小さい広場の前の路地を、場違いに騒がしい浴衣姿の一団が行き、発泡酒に余計な苦みを足して去っていく。

 ベンチしかない広場の中で首を捻りながら煙草に火を点ける。木製の街灯が幅を利かせるようなこの古い路地は小高い丘の頂上へ続いていて、道幅はおよそ一間ほどしかない。その両脇の斜面を無理やりコンクリートで固め隙間なく家を建て、一様に高いブロックの垣をしており、揃って古めかしい面構えだ。その圧迫感はひとしおで、道路のアスファルトは縮こまって所々に亀裂が走り、登っていくほどに圧し縮められている。

 やがてその圧力に耐えかねたアスファルトはコンクリートへとバトンタッチする。簡単なコンクリートで舗装された道はさらに狭まり、窮屈そうに建ち並んでいた古い家やボロアパートも、墓地へと姿を変えていく。墓地群の先にはまだ行ったことがなかったが、道に覆い被さるように木々が繁っており、探究心をくすぐられるような場所ではないことは確かだ。

 徹頭徹尾、陰気な風景の続くこの道の先に、あの馬鹿に浮かれた浴衣姿の男女が用があるようには見えない。花火大会の浮ついた足取りのまま、頂上から飛びあがろうとでも言うのか。打ち上がるのは花火だけで充分だ。
 数日前に発見した、アパートからほど近いこの広場は丘の中腹に位置し、日中工場の機械の罵声に疲労した耳を休めるには最適の場所だった。静けさを肴に一番安い発泡酒を飲み、煙の昇ってゆくのを眺めることが、派遣労働者の頼りない財布に許された数少ない慰みになっていた。

 この静寂を、あの若者たちに明け渡すのは今晩限りのことなのか。それが気がかりで後をつけてみることにした。削がれた興を取り戻すのにもいいだろう。公園を出た時もう姿は見えなかったが、彼らがどこにいるのか手にとるように分かった。暗闇は、甲高い笑い声ほどよく伝えるのだ。もうじき最初の墓が目に入る頃だろうか。火の消えた煙草を、発泡酒の缶に入れてゆっくり坂を上っていく。

 一つ目の墓の脇を通り過ぎてもなお、若者たちとすれ違わない。こんな夜更けに墓参りをするような敬虔な面構えの者は見えなかったが、戻って来ないところを見ると実は見かけによらないのかもしれない。そんな考えを吹き飛ばすような馬鹿笑いが夜闇を震わせる。やはり人は見かけ通りだ。
 そろそろ墓地群を抜ける頃だろうか。サンダルと足の隙間に入りこんだ小石が汗でへばりつき、私の妙な気まぐれを責めるように、一歩毎に不快感を与えてくる。それを払おうとすると、擦り切れかけた鼻緒が目に入る。

 その時、一際大きな叫びが降ってきた。不意を突かれて弾かれた物差しのようになっている間に、笑い交じりの悲鳴が坂を下って、もうその角まで来ていた。隠れる隙を奪われた私は、間抜けな表情を取り繕うことしか出来ずに半狂乱の集団と鉢合わせた。

 先頭の、浴衣を肩まで捲り上げた色黒で金髪の男が私を見つけて、野太い声を短くあげる。それに反応した後続の女たちが金切り声を響かせた。痛いほどの静寂が路地の上に被さる。昼日中であれば、こちらが震え上がるような出で立ちをした連中が、怖いものでも見るような目でこちらを見る。その引けた腰に、迂闊にも口の端が吊り上がるのを感じた。

 それを誤魔化すように軽く会釈をしながら通り過ぎようとする。同時に静寂も他の路地を目指して飛んでいった。それを合図にしたように若者たちは互いの顔を見合わせた。
 何、あれ。意味わかんない。
 そう聞こえたかと思うと、同時に笑い声をあげる。指揮者もいないのにぴったりと揃ったそれはこの世で一番汚い和音のようで、血管を一巡りしてどくんと大きく心臓を鳴らし、不快感と一緒に首元の汗に染み出る。肌に纏わりつくような湿気を含んだ笑いを置き去りにするため、早足になる。
 何あの歩き方。追いすがる言葉から耳を塞ぐ。

 こんなこと、するんじゃなかったな。黙って、場所を変えれば良かったんだ。有酸素運動からしばらく遠ざかっていた身体は、汗と息をしきりに外へ排出している。すぐにでも帰って寝転がりたい気分だったが、またあの若者たちの物笑いの種になるのが嫌で、引き返す気にもなれない。とはいえ、もう墓地も街灯もこの先には見えず、その先に行くのも億劫だった。

 さっきのおっさんいないな。
 行くか返すか、悩みながら来た道を見ていると、嫌な声が聞こえてきた。いいダイエットになる、そう腹を括って暗闇へと続く坂を登っていく。墓地群を抜けた先へ踏み込むのは初めてだった。街灯すらない道だ。当然というべきか、道の両脇の木々は好き放題に枝を伸ばし、頭上の黒い空にグラデーションをつけていた。
 歩いている間にも、若者たちの会話はよく聞こえてきていた。夜の闇の中で、位置を把握するのにはあの喧しさが役に立つ。追いつかれない距離を保って歩いていると、よく話が聞こえた。
 彼らは花火大会の後に、肝試しに来ていたらしい。そして草むらで音がしたのに驚いて、目的地へ着く前に一度逃げだしてしまった。その先に不幸な派遣労働者がいたというのが、事の次第だった。

 あのおっさん、幽霊かと思った。
 汚いシャツ着てたし、幽霊みたいなもんだろ。
 誰か指揮棒でも振っているのかと思うほど、一斉に笑い声をあげる。やはり戻らなくて良かった、という安堵の息も、疲労の息切れに交じってしまう自分が情けなかった。人は見かけ通り、と頭に浮かぶ。手にしたままの空き缶に指が食い込んだ。
 不意に、道の右側が開けて小さな道が現れた。その入り口に小さな木製の札が立っていて、首無し地蔵とある。あの若者たちが言っていた目的地に違いなかった。
 通り過ぎてしまっても良かった。だが、汗に張り付いたヨレヨレのシャツが、缶に食い込んだ指が、気まぐれを誘発した。何より背後から声が迫っていた。舗装のない、鬱蒼とした道に勢いよく踏みこんだ。

 本当にあのおっさんいねえな。マジで幽霊だったんじゃね。
 男がおどけた調子で言うが、続く笑いの合唱はない。どうやら指揮者は不在のようだ。坂道を逃げくだってきた男の顔に走っていた、怯えの表情を思い出す。汚いシャツの男は笑えても、地蔵様の前では騒げないだろうという読みはどうやら当たりだ。
 小道を入って百メートルほど行くと、道の脇に小さな堂が立っていて、首無し地蔵はそこにいる。昔は生活道だったのだろうが、いまは手入れもまばらで中央だけは草を刈ってあるが、全体的に背の高い藪が生えていた。堂の裏の山肌には大きなシダ科の植物が生い茂っていて、周囲の鬱蒼の感をより強めていた。私は、堂さえも埋もれそうなほど成長したそのシダの中に潜んで、若者たちの訪れを待っていた。

 ほどなくして、若者たちは姿を現した。強がって何かしきりに騒ごうとするが、垂れさがった枝や飛んでくる羽虫に触れる度に、短く悲鳴をあげては誤魔化すように笑っていた。
 なかなか堂の前に立たない若者たちにヤキモキしながら、息を殺す。背中を押し付けた山肌は湿っていたが、どうせ汚いシャツだ。とはいえ虫がそこから身体を這いまわったらと思うとゾッとする。その拍子に彼らに見つかれば、二重に間抜けを晒す羽目になる。
 その心配を他所に、ようやく堂の前に若者たちが到着した。話の通りであれば、地蔵の首の断面に十円玉を置いて帰るというのが、肝試しの達成条件のはずだった。誰が置くのか、という話でまた揉め始めた。
 よし、俺やるわ。
 流石、やるな。
 長引きそうな流れを断ち切り、一人の男がその役を買って出てくれた。

 これは青春の一コマというやつなのだろうな。男はどうやら一人の女に対して見栄を張っているらしいことが、やり取りから伝わってきた。男友達がそれを持ち上げるように、調子をつけている。
 財布のジッパーを開いている音が聞こえてきた。私の、シダの枝を握る両手に汗が滲む。その青春に、一風変わったコマを足してやる。
 よっしゃ、大したことないな。
 オッケー、戻ろ戻ろ。
 その言葉を合図に一斉に立ち去ろうとする。だが、その合図を待っていたのは君たちだけではないのだ。今度は私が指揮棒を振る。
 足元に置いておいた空き缶を、草むらから蹴り出す。突然の弾けるような音に、女が悲鳴をあげ、それが男たちにも伝播する。
 視線はきっと、音の発生源であるこちらを向いているだろう。両手に持ったシダの葉をゆっくりと揺する。
 なに、なんなの。
 動物だろ、もう早く行こう。
 暗闇なので不安だったが、ちゃんと気が付いてくれたようだ。その視線の去らぬうちに、両手を思いきり激しく揺らした。
 背丈ほどの大きな植物が突然、激しい葉擦れの音をたてて揺れる様は、傍から見たらきっと恐ろしいだろう。まして首無し地蔵の御前ならば尚更だ。若者たちは叫び声をあげながら走っていった。その声はやはりぴたりと揃っていて、あの笑い声よりはいくらかマシな和音だった。

 完全に声が聞こえなくなって草むらを出る。こらえきれなくなって噴き出し、ひとしきり大笑いをした。転がった空き缶を堂の前の地面に置き、煙草を咥える。にやけが収まらず、火を点ける間にも煙草を落としそうになる。煙を吐き出すと、それまで忘れていた疲労感が足や、腰に帰ってきた。
 散々な一日だった。お気に入りの公園は、今後あの若者たちと出くわす可能性を思えば使いづらくなってしまったし、シャツについた泥はなかなか落ちないだろう。せっかくの発泡酒の酔いもとっくに醒めていた。
 地蔵の首に乗った十円玉を手にとってみると、どうにも少し大きいような気がする。ライターの灯りを翳すと金色をしていた。あの若者は五百円玉と間違えてしまったらしい。煙草一箱、弁当一つ、発泡酒が三本。私なら間違えない、間違えられないだろう。
 目の前の堂に向き直る。木製の小さなそれは、土台から歪んでいる。地蔵の方も全体が苔むしていて、もう何年も手入れはされていないのだろう。私たちはお互いに、見てくれが酷く悪かった。
 地蔵の足元に置かれた箱の中に、手に持った五百円玉を入れ、自分の財布からもう一つを、そこに加える。もう一本の煙草に火を点けて、地面に置いた缶のプルトップに差し込む。あんたもなかなか災難だったな、線香なんて気の利いたものはないからこれで許してくれ。そう心の中で呟きながら手を合わせ、煙が消えるまでそうしていた。

本、映画、音楽など、数々の先達への授業料とし、芸の肥やしといたします。