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僕と彼の男二人暮らし~誕プレどうしてる? 編~

「プレゼント用ですか? それともご自身用ですか?」

定型化されたこの質問に、僕の体は一瞬こわばり、身構えてしまう。
あとは支払いさえ済ませてしまえば、任務完了だというのに。

出来ることなら、自分用だと言ってしまいたい。
しかし、そう言い切ってしまうには、今店員さんが手にしているメンズ服は僕にはオーバーサイズすぎる。
何より、そうするとせっかくの誕生日プレゼントが少しばかり質素に映ってしまうだろう。

「……プレゼント用でお願いします」

気まずさを抱えながら、店員さんの目は見れずにそう告げる。
そして、やり取りを終えて店を出た後は大抵、自信のあるプレゼントを買えた満足感よりも、「今回もどうにか店員さんに変な顔されずに済んだ」という安堵感が先にこみ上げてきてしまうのだった。

「男がメンズ品をプレゼント用として買う……。これはもう、『そうです』って言っている様なもんだよな」

道すがら、紙袋片手に先ほどのシーンを反芻してしまう。

その間、「兄弟に向けたプレゼント」だとか「友人へのプレゼントを代表して買いに来ている」とか、店員さんから思われているかもしれない都合の良い解釈は消え失せ、「絶対にゲイだとバレた」という都合の悪い解釈だけが脳内を支配してしまうのだった。

こんな感じだから、以前の僕はパートナーへのプレゼント一つを買うのにも、ひどくビクビクしていた。
そういう点では、パートナーの誕生日というのはストレスのかかるイベントだったし、いつからかネットショッピングでことを済ませるのがデフォルトとなっていった。

恐らくそれが正解だと思うし、これからもそうしていければ良かったのだろう。
しかし、今のパートナーと付き合う様になってからはそのスタイルが崩れてしまい、年に一度、より深い気まずさの中に身をおくこととなる。

「お母さん式スタイル」
今のパートナーとの記念日におけるプレゼント購入にいたるまでのフォーマットを、僕は勝手にこう呼んでいる。

例えば直近の僕の誕生日の場合。
僕はスーツを新調したくてお店へと行った。
セミオーダーで仕立ててくれるお店だったので、店員さんと生地はどうするだとか、形はどうするだとかを話し合いながらデザインが決まった。

「完成は2ヶ月後になります。こちらが引き換えのカードです。お会計は受渡時ではなく今でもよろしいですか?」
と聞かれたので、「はい、今でお願いします」と答え、レジへ移動した。

きっと、店員さんも驚いたに違いない。
ただの連れだと思っていた、一言も発さずに横でつまんなそうにしていたもう一人の男がレジの前に立ち、財布を取り出したのだから。
店員さんの目にはちゃんと、僕ら二人は何か訳ありに映ったことだろう。

こんな感じで、誕生日を迎える本人が何が欲しいか見定め、店員さんと会話をし、時にはその営業トークを捌きながら、一年に一度の記念日に相応しいプレゼントを決める。
レジに持っていくのも、会計後に商品を受け取るのも本人の役割だ。

ただ一つ、お金の支払いだけはパートナー側が行う。
まるで、小学生や中学生時代に親からプレゼントを買ってもらう時の流れの様なので「お母さん式スタイル」。
これが、僕達のやり方だ。

ちなみに、クリスマスなどはこのスタイルは適用されない。
この一連の流れは誕生日に限ったことであり、それは「クリスマスはただの商業イベントなので独断プレゼントでOK、誕生日はその人が生まれてきた大切な日だからその人が欲しいものをあげるべし」という彼の哲学に依るものである。

この「お母さん式スタイル」、最初こそとても気まずかった。
店を出たあと、「あの店員さん、さすがに察したよな」とか、「レジしながら内心どう思ってたかな」など、色々と話したものである。

しかし、今ではそれもなくなった。
相変わらず気まずさはあるのだが、なんとなく分かってしまったのだ。
「向こうはそこまで何にも思っていない」って。

「友達いないヤツって思われそうで恥ずかしい」とこっちが勝手に思っているヒトカラと同じ様なものである。
店側は正しい在り方で売り上げに繋がるのであれば、個々の事情なんてきっとどうだって良いのだ。

こういった、「何か変な風に思われるかも」なんて不安は、たいていが自らに課したナルシズムな呪いに過ぎない。

これを「実感」として知るには、地雷が埋まっているかもしれない荒野を自ら歩いてその有無を確かめるように、体当たり的に経験していくしかないので勇気がいるが、一帯を渡り終えた時の心の治安は確実なものとなっている。

それに、世の男性は彼女へのプレゼントを買うために、気まずさとのせめぎあいの末に、男子禁制に思えるお店へ一歩を踏み出して大人になっていくが、僕らが抱えるこの気まずさも似た様なもので、大人になるために必要なものなのかもしれない。

それに、「気まずい」よりも「気に入ったものを買ってあげたい」の気持ちが先行している内は、僕達の間柄もなんとなく大丈夫だと思えるのだ。

全身に沸き立つ様な「気まずい」をその人の為に甘んじて受け入れようと思えること。

それ自体が、つまりは、そういうことなのだ。


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