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デザインに哲学は必要か?



最近、僕が読んでいる本の中でも特に熱中して読んでいる本があります。
「デザインに哲学は必要か?」という本です。

タイトルからしてすごく興味を惹かれるのですが、今回はこの本に記されている内容を元に、デザインについて考えることを共有させていただきたいと思います。

まずはじめに、この本に関して簡単な説明を、、、。

デザイナーに限らず哲学家や評論家など、専門はそれぞれの9名の先生方が、あらゆる立場から「デザインと哲学について」記された内容になっています。

今回は、この本の編集者であり、九州大学大学院芸術工学研究院にて教授として勤められている、古賀徹さんの書かれた章にフォーカスを当ててデザインについて考えてみます。


それではさっそく、、、。


この章は、「自由を設計するデザイン」と掲げられ、産業革命以降の機能主義におけるデザインの在り方を原点として、変化し続ける時代の中でデザインにどのようなことが求められているのか、あるいは、必要となっているのかということが記されています。

そして、あらゆる分野において根本とも言える「哲学」を元に全体が構成されていることもあり、非常に根源的な内容となっており、抽象的な表現も多いように感じました。


「機能主義とは。」


序盤にも出てきたワードですがそもそも機能主義、機能とはなんなのか、という内容が章のはじめに記されています。

18世紀半ばから19世紀(1760年〜1840年)にかけて行われた「産業革命」を機に、デザインにおいても「機能」というものが非常に重視されるようになりました。

「機能」というと、座れる・収納できる・敷くことができるなど、生活者にとって実用的であり、より快適で便利な様子こそが機能的であり、かつ、無駄な装飾が排された状態こそが美しい姿である。と捉えられています。

例えば、狭いワンルームの部屋の中にロフトへ上がるための階段があり、その階段が収納としても使える棚になっているとします。

「狭い空間」という問題に対して、ロフトへ上がるために必要な階段に「収納」という機能を付随させることで、狭い空間の中でもより快適な生活を送ることができる。

さらに、「ロフトへ上がる」「収納する」という二つの目的を達成するために最低限必要な要素のみを抽出し、形態化されている。

この事例は、生活者にとって「機能的な空間であり、美しい様子である」と捉えられます。

しかし、この章の著者である古賀さんは「機能」についてこのように述べています。

① その製品の実用目的(座ること)ではなく、その製品を構成する素材に向けられた言葉である。
② 機能主義とは、装飾を排除するものではなく、要素の関連それ自体が一つのフォルムを形成し、そのフォルムを結果的に美的装飾として「機能」させるもの。

要は、余計な装飾を排して実用的に製品を考えることが機能主義であると
捉えることには問題がある
、と記されてあります。

そして、「機能」を上に記したように捉えた上で機能主義の最大の問題についてこのように述べられています。

機能主義が抱える最大の問題は、その関連のうちに組み込まれた人間が、その機能と称される連関に手をつけたり、それを内側から組み替えたりすることを著しく制限され、デザイナーや管理者の支配を受けざるをえないという点にある。

以上の文章を僕はこう捉えています。

デザインの施された製品や空間そのものが、機能主義的な思想のもと生まれており、その形態自体が美しいものであるとされているとするならば、そこに生活者のうちから発する感情や製品との新たな関係性を築く余地がないのではないか。
その製品や空間を使用する生活者がその製品や空間について「考えること」そのものが制限されているのではないか。と。


「時代とデザイン」

変容し続ける時代とともに、デザインの在り方や目的も変わり続けます。
その時代において求められること、正しいとされることは変化し続けるわけですから、同様に「抱える問題」も変化し続けます。

抱える問題が変われば、その「答え」であるデザインも必然的に変わります。

そのように変わり続けている「デザイン」について、古賀さんは「デザイン 一・〇」「デザイン 二・〇」「デザイン 三・〇」というように整理した上で今の時代においてデザインがどうあるべきなのか、ということを述べられています。

「デザイン 一・〇」

19世紀以降の工業化の時代においては、工業製品を製作するためにも精密な計画や指示がデザインの目的であったとされています。

工業化は製品を大量かつ安価に製作することによって、当時の物資の欠乏という問題に対する根本的な解決策とされていました。

その為、工業化を支える上でも欠かせない精密な計画や指示こそが当時のデザインの在り方であったとも言えます。

しかしそれと同時に工業化は、人間を機械化し自然との関わりの中で自らを自由に発展させる人間の本来の在り方から人間を引き離す要因であったとも言えます。

この章では、これを「人間の疎外」と記されてあります。

工業化による過剰生産によって、労働者は困窮し、貧富の差は拡大し、さらには世界大戦を引き起こした要因ともなり、20世紀には大量殺戮兵器の量産によって人類を滅亡の危機にまでさらしました。


「デザイン 二・〇」

このような工業化や技術の在り方に対して19世紀後半から20世紀にかけて、工業化に伴う「人間の疎外」という問題を、まさに工業化の論理を徹底することによって解決する技術としてデザインは発展していったと言います。

つまりは、技術を人間化するための工業技術、その設計図を意図的に構成する事
デザインにおいて求められるようになりました。

この流れは「デザインは問題解決の手段である」という、現代においても重視されているデザインの在り方にも繋がっているように感じています。

「問題を解決する」ということは、何かを意図して物事を構成する必要があります。

結果として、対象となる生活者はデザイナーや管理者によってコントロールされている状態であり、機能主義が抱える最大の問題とも言われている、
「それらの支配を受けざるをえない点」にも繋がるように感じています。


問題を解決する、何も不便がないように、快適に。


その先にある「死」に至るまでの人生を、そのように意図して描いてしまっているのです。

つまりデザイン 二・〇は、このように意図して組み立てるために「技術を人間化」することを目指している。と記されています。


「デザイン 三・〇」

では、「技術を人間化」すること、人間をシステムの一部として成立させることの目的とは、「安心・安全・快適・効率・便利・わかりやすい」などの技術を提供することなのでしょうか?

完全なシステム、上に記した技術を提供するには、完全に孤立し閉じられた形でしか成り立たない。と、この章には記されています。

上に記した「安心・安全・便利」などの技術の提供に関わらず、何かの問題を解決するために構成された解答、いわゆる現代におけるデザインの在り方は、外部環境や予期せぬ他者が入り込んでくる環境においては成立することは、原理的に不可能であるということだと捉えています。

その時々によって、そこを訪れる人間や外部の環境は変化し続けるわけですから、
どんなにデザイナーが問題を解決するためにデザインをしたところで、問題は流動的に変わり続ける時点で、「問題解決のためのデザイン」という在り方は、破綻しているのではないか?ということです。

そしてそれは、システムの一部として包摂された人間自身が、システムに収まりきらず、その内部から発するのが、「これでいいのか」「これが人間なのか」「人間とは」といった一連の「問い」であるとされています。

このような「人間自身に関する問い」、いわば、「人間性」には明確な答えなどは当然のごとく存在しないのではないかと考えています。

では、現代におけるデザインの在り方とは一体どのような在り方なのか。ということが「デザイン 三・〇」では記されています。


というところまでを前半部分として、一度文章を終わらせていただきたいと思います。

僕自身、この本の内容を完全に噛み砕けているとは言えないため、だいぶ内容を省略してしまっており、すごく読みにくい内容となってしまっているかもしれませんが、、、。

次回は、本題でもある「現代におけるデザインの在り方」についての文章を共有させていただきたいと思っています。

それでは、本日も最後までお付き合いありがとうございました!


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