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こころのかくれんぼ 12     【入院徒然日記 ~渇きの夜~】

静かな環境と鎮痛薬のおかげで、眠っていたようだ。
目が覚めた時には身体が温まり、震えも治まっていた。
腹部の焼けつくような痛みも少し落ち着いている。
呼吸をすると胸やお腹が連動してひきつれて痛むけれど、十分我慢できる。本当にありがたい。
が、今度は身体が熱を帯びている事に気付く。術後の体温の上昇。
これもまた自然な体の反応だ。よし、生きてるぞ、わたし。
痛いなあ、と言う言葉の中でふっと意識が途絶えて、痛いなぁと言う言葉と共にふっと目が覚める。
それでも「術後急性疼痛は24時間がピークだから、明日の昼頃にはきっと峠は越えるはず…」等と、ウトウトと思考を巡らせる事で落ち着ける自分がいた。

痛みの次に感じたのは、強い渇きだった。
軽く閉じた唇には粘膜の水分を感じられず、カサカサとざらついた感触がすり合わさっていく。舌は一回り縮んで小さくなったかのように動かしにくい。せめて唾液で潤したくても、それも思うようにならない。
飲水許可が下りるまで、あとどれくらいだろう・・・とぼんやり考えながら、少し汗ばんできた身体に空気を送ろうと布団を軽く持ち上げて、腰を少しだけ浮かせた。そのとたん、尿道から突き上げられるような強い違和感と痛みが走る。

驚いて「いたっ!」と思わず声に出してしまった。
そうだった。この子がいた・・・。尿道カテーテル。
これは明日の朝まで一緒に過ごすことになる。尿量カウントもさることながら、しっかり意識が戻って歩けることが確認できないと抜いてもらえない。
そして全身麻酔の後には尿閉といって、膀胱内に尿が溜まっていても括約筋がうまく働かずにおしっこが出ない事がある。
それらの理由も合わせて、すぐには抜けないものなのだ。傷の痛みとは異なるこの違和感と不快感は、本当に何とも言えなかった。


時が流れ、担当看護師さんが水を飲める時間になったと教えてくれた。
ゆっくりとベッドをギャッジアップして、上体を起こす。
座位に近くなるにつれてカテーテルが食い込んで、内側からまた鈍い痛みが走る。両手をぐっとマットに踏ん張って、少しだけ腰を浮かせて痛みから逃げた。でも腕に力をいれると、今度は前胸部の傷が響く。
痛みは、身体がパーツで構成されているのではなく、全てがつながっている事を教えてくれる。

前回は両手が包帯で覆われていて、まるでドラえもんのようで(本当に包帯で丸く包まれていたのだ)全く指先の自由が利かなかったことを思い出し、こうして痛みに対して咄嗟に手が動かせる自由の有難さをしみじみと感じた。触りたいものに触れられる。自分を守れる。
あぁ。手って本当に凄い。

そろりそろりと体勢を整え、むせないようにゆっくりと飲んだひと口の水。
本当においしかった。ありがたかった。
生き返るって、こういう事なんだなって。
唇、舌、口腔、喉、食道、そして胃の中へ・・・。
水を自分の身体の中に迎え入れられていくことを、深く実感できた。
ひとくち水の有難さに、思わず涙がこぼれる。


渇きは、苦痛だ。


初めて総合病院という場所に転職し、受け持った人の事を思い出していた。
「意識レベルが下がっていて、会話不能です」と伝えられていた人だった。眉間にしわを寄せて大きく口呼吸を繰り返しているその人の表情は、苦痛をしっかり感じているように私には見えた。意識はある。そう思った。
開いたままの口から見える舌は、まるで干物のように縮んでいた。
喉からは、あーと小さく声を発している。
耳元で名前を呼びかけて少し待つと、微かに頷いて返答して下さる。
やっぱり、意識がある方だ。そう確信した。

乾いて亀裂の走った唇が切れないように、ワセリンで薄く潤した。
そして開いて固まった頬の内側を濡れたスポンジでゆっくりとマッサージをし、嘔気を誘発しないように舌の上も少しずつ湿していった。
開いたままの口は、その人自身の力でゆっくりと閉じられ、そして小さく発せられた言葉は「ありがとう」だった。
分かっている人だった。
喋れる人だった。
話せなくしていたのは、私たち医療者の思い込みと関心の薄さだったのだ。
人間らしさを奪うことも、回復の力になれることも、その両方が出来てしまう自分の仕事の怖さというものを深く感じた瞬間だった。


喉に張り付くようだった舌が、滑らかに動かせる。話せる。
「今、歯磨きもして良いですか」と言葉で伝えることもできた。
ただ飲水するだけよりも、歯磨きは口腔内全体に清涼感を高めてくれる。
きっとこれで、一晩心地よく過ごせるはずだ。
何も要望しなくても、ガーグルベースンと共に歯磨き用の水と、飲み水と両方の用途の水を用意してくれた看護師さん、ありがとう。
そして彼女は見回りの度に、減った飲み水をそっと追加してくれたのだった。観ていてくれて、本当にありがとう。

水と人のありがさ、そして少しずつ取り戻していく自分の身体感覚のひとつひとつのありがたさ。まるで感謝祭のように、HCUの夜は更けていった。


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