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本当のことを言うことへのこだわり

過去を語るとき、あなたは本当のことを言っているか。
そう問われたら、自信をもって「本当のことを言っている」と言える人はどれだけいるだろう。


こころの時代『生き延びるための物語』を見て

NHKの番組『こころの時代 生き延びるための物語 哲学研究者・小松原織香』を見た。

哲学研究者・小松原織香さん。戦争や犯罪などが起きたその後に、人々が何を考えてきたか、研究している。昨年、「当事者は嘘をつく」というタイトルの自身に関するエッセイを書いた。19歳のときに遭った性暴力の被害、そして研究者となった個人の物語。葛藤を抱えつつ、生き延びてきた半生とは。苦難の後、人はどう生きることができるのか。当時、小松原さんの研究拠点だったベルギーを訪ね、インタビューを行った。

『こころの時代 生き延びるための物語 哲学研究者・小松原織香』

番組では著書の一部を抜粋したナレーションが流れ、小松原織香さんの思いが語られた。研究者として、一方では当事者として、困惑しつつも正直に語っている印象だった。とてもかわいらしい人だ。

小松原さんが被害にあったのは20年ほど前だという。
自分と状況が重なった。

だから「今さら、言いたいという気持ちはあまりなかった」という言葉にも共感する。

ここまで読んだところで、あなたの頭の中に、何か定型的な性被害者の物語が浮かんだのではないだろうか。

今さら当事者として語る理由

今さら感がありながらも、小松原織香さんは『当事者は嘘をつく』で自身の経験を書いた。執筆依頼があり、原稿を何度も書き直す中で「自身の経験を物語にすれば形にできるのではないかと思った」と言っている。
「苦しかった経験を誰かに聞いてほしかったのではない」とも。

わたしも、今回noteを始めるにあたって「犯罪サバイバー」と肩書きをつけた。家族のこと、人生のことを語ろうと思ったとき、被害にあった経験を抜きにできないからだ。

過去の物語はチープか否か

小松原織香さんは、自身の経験とその後の人生について「チープな物語は作らない方がいいと思っている」と言った。とても印象的な言葉だった。

「本を出しました。それで自分のアイデンティティが変わりました。当事者としてお話しできるようになったから、今度は国際学会でそのことについて話しました。っていうのはチープだと思う」と。

分かる気がする。

実際には、チープなはずがない。むしろめちゃめちゃディープだろう。

自分の過去を語るとき、すべてを語ることはできない。それは過去を抜粋した物語であって、そのひとつひとつには奥行きや幅があると思う。誰の過去にも等しく。

でも物語を聞いたとき、聴き手は「自分の中にある定型的な情報」と結び付けるのではないだろうか。奥行きと幅を確かめることをせず、勝手に補足し整えるのではないか。本当は、そこにアイデンティティがあるはずなのに。

大事な部分が抜け落ちたまま、「わたしの過去」という物語は定型の中のひとつになってしまう。それが嫌でも、すべてを語ることなどできない。嘘ではない、でも本当でもない気がする。…そこに葛藤が生まれる。

小松原さんの「何が本当なのか、嘘をついているのではないか」の視点からは少しズレるかもしれないが、わたしは番組を見ながらさまざまに考えを巡らせていた。

パーソナルヒストリーを語る意味はあるか

ふと思い出したのは、以前働いていた職場での「パーソナルヒストリーを話す」という体験。
わたしは新しい事業を始めるにあたって採用されたうちのひとりで、まず最初に、集まったそれぞれの背景を知ろうという試みだった。

それぞれのパーソナルヒストリーを聞いて、「わたしはここに居ていいんだろうか」と不安になった。それぞれの経歴に圧倒されたからだ。

飲食関係の事業だったのだけど、その経験がなかったのはわたしだけ。わたし以外の人はみな、長年飲食業に携わってきた人だった。
だから、わたしだけ畑違いな感じがして居心地が悪かった。
「なんで採用されたんだろう」とさえ思った。即戦力にはほど遠いのに…。

社長は人柄を重視するタイプの人ではあったから、わたしに何かを見出してくれたのかもしれない。後に直接聞いてみたけど、「なるほど」という答えは聞くことができなかった。同時に「あまり期待されてない」ことを感じた。

今考えると、社長はわたしを定型にはめた気がする。わたしの過去に同情し採用したのではないかと思う。

そして、圧倒された経歴の持ち主の彼らは、一緒に働いてみるとギャップがあった。語られたパーソナルヒストリーから、わたしが勝手にすごい人たちだと決めつけていたのだ。

自らの過去を語り合うことに、意味がないとは言わない。でも、やはり物語でしかない。何を抜き取り話すのか。それを抜き取った真意にこそ、本当のことが隠れているような気がした。

本当のことを言うかは自分の問題

過去を語る。そのとき聴き手が勝手に補足し理解する。そこに「本当のこと」とのズレが生じるわけだ。でもそれは、聴き手だけの問題ではないと思う。

人は自分を語るとき、都合の良い部分だけを抜き取ってしまいがちだ。それだと美化された物語になる。中には、嘘を織り交ぜてしまう人もいるだろう。それはもうフィクションでしかない。

とはいえ、「本当のことを話さなければならない」わけでもない。
真実を語っているかどうか、そこにこだわるのは聴き手よりも語り手の自分だ。

小松原さんも「わたしが、本当のことをいうことにこだわりがあるから」だと言っている。「脅迫的なぐらいに自分に誠実さを求めてしまう人」がいるのだと。

自分に誠実でありたい人だけが、自分に「誠実か」と問うのだ。

なにが本当なのかに悩む人は、嘘はつかない。できる限り自分に誠実に、正確に、語ることや知ってもらうことに細心の注意を払っている。

わたしもそう。そしてその根本には「共感してほしい」という欲求があると思う。同情でなく、定型的ではなく。

本当のことを共有したとき、相手が何を思うかは自由だ。でも共有した先に、心から共感してくれる人がいたなら、それだけで救われると思う。

だから自分と徹底的に向き合う。本当のことを言いたいからだ。自分の気持ちが分からなければ、本当のことを言うことはできない。

小松原さんが哲学研究の道へと進んだ、本当の気持ちはわからない。でも、「本当のことを言うことへのこだわりがある人」にとって、必然的な流れだったのではないかと思う。

心がほどける瞬間

共有したい。そして共感してくれる人に出会いたい。これは犯罪被害者だけに言えることではない。だれもが持つ欲求だと思う。

小松原さんは被害後、自助グループに参加していたそうだ。

わたしは積極的に共振し、同一化していくなか、孤独だった自己から解放されていった

『当事者は嘘をつく』

わたしは被害後、自助グループには参加していない。1度くらい母親に言われたらしいが覚えていない。今思えば、そういう場所へ行くことが、わたしにも必要だったかもしれないと思う。

そう思うのは、心がほどける瞬間を体験したからだ。

姉の友人がわたしの犯罪被害の話を聞いて、(加害者に対し)憤ってくれたときだった。
「共振」してもらった瞬間だったってことか。小松原さんの一文に、妙に納得感があった。

当時も「あぁ、誰かにわたしの代わりに怒って欲しかったんだな」と感じていた。
安心するような、嬉しいような、緊張がほどけるような。
なるほどあの感覚は「気持ちが同期した体験だったのか」と思った。

そこから考えると、気を遣ってもらうことは、共振ではないんだな。とも思う。

わたしが過去を語るのは

わたしにとって被害体験によるトラウマは、さほど問題ではない。もう20年以上経っていて、それなりに折り合いをつけて生きてきた。

今、わが家は家庭内別居中だ。この先家族としてやっていけるかどうかの瀬戸際なのだけど、過去に向き合えない父が立ちはだかる。

わたしは過去を共有することで、家族と共振したい。家族の過去を共有してもらうことで、家族に共振したい。そのために、本当のことを語ることにこだわっていたい。父にも本当の過去を語ってほしい。

家族には、いくらでも語れる時間があるのだから。


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