見出し画像

心のカタチ

何故。
自分たちには心があるのだろう。

『心のカタチ』

人には心があるがために
”喜”ぶことを覚え
”怒”ることも覚え
”哀”しむことも覚え
”楽”しむことも覚えた。
それらを感情といい、自身の心を表している。

どうして感情を覚えるのか。
それは心の中心にある”もの”がそうさせるから。

その”もの”とは。
自分たちに"あること”を感じさせるチカラを持ち
それを感情が醸し出すのです。

ただし。感情には悪戯な癖があり
”もの”が湧かす感情を真似て。
感情が感情を造りだしてしまうのです。
その感情は繰り返し造り続ける癖があり
その感情が自身の"気持ち"を見失わせるのです。

感情とはとても心に溜まりやすく消えにくもある。
その感情が心の余裕を埋め尽くしてしまえば
"気持ち"とは異なる偽りの自分を造るのです。

それを感情的ともいい
誰もがそうなる癖を持つのです。
人にはそうさせる理由があります。

「心を知らない」こと。

さらに。
その知らないことにも気づいてないのです。

心を知らないとはどういうことか。

自分たちは学校で”心”という漢字を習いました。
その意味を辞書で何となくは知ってます。
ただ知っているのはそのぐらい。

そのぐらいで自身や人の悩みを話し、恰も心を知っているかのように振る舞っているのです。

そのぐらいにもかかわらず
平然と”心がある”と言い切るのです。

なら。
その心は何処にありどんな形をしているか。
よく知っていることでしょう。

と言いたいが。
もしそれすら知らないのなら
心の何を知って今まで語っていたのか。

実は。
それを知らないまま学校で習ったことで
”心”を作り出していたのです。

例えば。
胸のあたりや頭に心があるいう人がそう。
何故そこに心がある言うのか考えてみれば判ります。

それぐらいしか習ってないから”分からない”んじゃないでしょうか。

そんな何処にあるかも分からない心に
自分たちは話しかけるようになってしまたのです。

心に頼ることをしてもその心が何処にあるのか知る由もなく。
ときにはそんな心を相手に病す人を造りだしてしまう。

当たり前だが。
問う心が分からないのだから
その答えが自身の”もの”が感じさせた答えか自信がない。

だから。
”もの”が創りだした答え(本音)なのか。
感情が造りだした答え(感情)なのか。
区別がつかなくなる。

それは「納得」する理由がないからとなる。

心を知らないとは”そのぐらい”で
心があると言う人のこと。
それが悪いとかではなく。

「心を知っているようで実は知らない」だけ。

それは自身がそうさせしまったに他ならなず。
心を病してしまう人がいるのも
自信の心を知らないから感情に囚われ抜けだす術がない。

悩んでいる人。
心を病ましている人。
知人などに”心は何処にあるか”聞いてみると
”分からない”。と言うんじゃないでしょうか。
ついでに自分にも聞いてみれば判るはずです。

「誰も分かってない」

とはいえ。
心は確かにあります。

漢字を知っていても。
辞書で意味を知っていても。
心があると云えないことは
それが説明できないだけです。

だから今。
あなたは心を知りだすことを知りはじめなのです。
それは確かに心があるからはじめれるのです。

それは自身がはじめるか。はじめないか。を選べれるということです。
悩みある人は心を知ることが大切(さき)です。
それが悩みを解決する遠回りのようで近道となります。

それには心が何処にあるのか知ることから始めます。

心のカタチは心の場所も教えてくれます。
簡単なことそのカタチが自身の何処かにあて嵌るのです。

これが心を知るはじめの一歩です。
心を自身の”もの”にするはじまりです。

『はじめの一歩』

あなたは。
幸せになりたいですか?
不幸になりたいですか?
何を聞いているかと言われそうですが
それが”もの”を知る近道です。

それは聞かなくても判りますが
誰もが「幸せになりたい」というはずです。

それに。
このことは誰もが知っているいることですが
自分も例外なくそうですよね。

たまに”不幸になりたい”という人がおりますが
それは感情に囚われた人のこと。

ちょっと聞きます。
あなたは”こころ”という漢字が書けますか。
意味も何となく辞書で知っていると思いますよね。
これらは小学生の頃に習ったと思います。

例えば辞書には”精神が司るところ”などと書かれてます。

精神とは何か。
司るところとは何処か。
あなたは分かりますか?

”精神”や”司る”の意味は辞書でひけば分かります。
でもその説明は難しい言葉が続き
結局何処にあるかは書いてありません。

当たり前なのかも知れません。
辞書を書いた人も知らないのだから。。。

小学生の時。
それを先生が教えてくれなかったのも
先生の先生が心が何処にあるか習えてないからです。

だから。そのぐらいだし。
先生も教えれないのです。

先生は「そうさするしかなかった」のです。
それ以外を習ってないから当たり前ですね。

人は心を言葉にします。
しかし。
その心の説明はできないのです。
あなたはそれを知ってましたか。

それでも心が何処にあるか聞いてみると。
頭や胸の辺りという人が多々おります。
どこでそう習ったのでしょうか。
漫画やTVの見すぎかも知れませんね。

世の中には得意気に心を話される方がおりますが
心の何を知って話しているのか。
もし、心を知らずに話す人がいるのなら
それこそ心を病す人を造りだしているかも知れません。

「人には何故心があるのか」

それは心を知ることを知るためであり
そして自身の”もの”として扱うためです。

”もの”を「物」として話ます。
人は道具(もの)を扱います。
道具はとても便利で役に立ちます。

道具はその形や特徴から扱うことで
自身のために人のために役立ちます。
それには幸せに感じさせるチカラもあります。

自分たちカラダにも様々な「もの」があります。
手足などカラダにあるものがすべてそうです。

例えば、手足を使うことで持つことも歩くこともできます。
それは手足をよく知っているから扱えるのです。

心を”もの”と話しているのも
「物」と何らかわりないから扱えるのです。

「バラの華のような」

心の中心にはある”もの”はいつも「幸せ」を感じております。
それには「幸せになりたい」が感情あります。

その感情には喜怒哀楽という感情が幾重にも重なりあいカタチ築きます。

それらが重なれば重なるほど
幸せを感じるチカラを見失うことを意味します。
だからと云って
感情が悪いことはありません。

喜怒哀楽も自分自身でありあり得ることだからです。
ことはその喜怒哀楽を感じることで
今、幸せか。
幸せじゃないか。
を気づけばいいのです。

それを常々感じれるだけで自分の歩む道は自ずと見えるはずです。

それが感じれない人は感情に囚われ
自身の心(かんじょう)に振り回されいるんじゃないでしょうか。

心のカタチは。
心の中心にある”もの”を感じれば
その幾重にも重なりあった喜怒哀楽という感情が
自身のため扱うカタチにあります。
それは薔薇の華のようなカタチとも云え
自身に必ず一つあるのです。

幸せに導くためにあるものは心です。
何処にあるか分かりますか?

つづく

#心のカタチ
#心の形
#心を知らない
#心
#喜怒哀楽
#感情
#癖
#悩み
#悪戯
#幸せなりたい
#不幸になりたい
#薔薇
#自身を変える
#ところ
#原因
#もの
#物
#幸せになるため

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?