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気づきとこころ

”気づき”には、気づき方が2つある。
1つは、自分で気づく
もう一つが、人に気づかせてもらう

前回、『こころを育む』というお話をしました。
その中で「気づき」の大切さと”こころの余裕”と云う「1」をつくる話でした。もし、まだ読まれてない方は下記を読んでいただき、この話の続きをご覧ください。

この2つは、極当たり前なことことですが、それにはその気づき方がとても大事となります。例えば、自分たちは感情的になると今の自分が幸せかどうかなんて知る余裕を失います。自ずと”気づき”さえ怠ってしまうのです。

それは”心を知らない”がため、優先する”もの”を後回しにしざるを得なく、そうするのです。

自分で気づく

まずは「自分で気づく」からお話します。
自分とは自分自身のこと。その自分が”気づく”だけで良いのです。誰にも邪魔されず”気づく”のだから「何だ簡単じゃん」と思う方は、経験や学びから気づく事をしているだけです。それが幸せかどうかまで自分の心に気づこうとする人は極まれと思われます。もし、それに気づく人ばかりなら温厚な人々が増え争いは起こらないかも知れませんね。

しかし、その「自分で気づく」が一番むずかしくさせる理由(かんじょう)を繰り返し湧かせます。

人には”気持ち”を表すために感情があり、その感情は自分に起きた出来事を喜怒哀楽(かんじょう)で表します。人はその表情を見れば簡単に相手の心が判りもます。

ただし、それが”気持ち”から湧いた感情なら判り得れますが、自分に起きた出来事を”考える”や”思う”を繰り返せば、更に感情をわんさと湧かし”気持ち”とは違う表情をつくります。それは感情に感情を重ね次第に”気持ち”を見失わせた結果です。

「誰にも邪魔されないから簡単」と思うばかりに”考える”や”思う”の理由(かんじょう)を湧かし、感情の湧き放題とさせてしまうのです。

それは「感情的」とも言えます。

皆さんも知ってのとおり、人が感情的になると物事が正しく見えなくさせます。それでは、自分を正しく導けません。

と云いたいですが、実はもう1つ感情を湧かす理由を重ねてます。そもそもその”正しく”とは何か。何をもって正す必要があるのか。だが、自分たちは正す”もの”を知らないのです。

そんな人の中には正す”もの”を心と思う人がいますが、その心の何を知って正せるのか。”考える”や”思う”ばかりで納得(こたえ)は見つけれないのです。

ただし、この「納得」にヒントはあります。
それは、気づく”もの”がそこにあるからです。
その”もの”こそ『心』となります。”心を知らない”から納得も正すも出来ないし、それを優先することができなかたのです。

それは心の病も同じです。
ある意味、心の病も「感情的」と言えます。
その方々はよく”考える”や”思う”をしてませんか?

それでは心を治す(ただす)どころか。感情を湧かす理由(えさ)を与えます。もし、何らかの治療で良くなれたとしても、そこに”納得”はないのです。その証に症状が繰り返すがあります。

納得する(ただす)のはどこか。
まず”心を知る”を優先しなければ出来るものもできなくさせます。

それもこれも。優先すべき”心”を後回しにした結果です。その”心”に気づけなければ自己治癒に至れないのです。

とあるここ(心のカタチ)を知るnoteの方が以前は「こころ」を多様しておりました。今はその言葉に置き換わり「気持ち」をよく使うのを見受けます。それには心を自分の”もの”とし扱いだしたと感じます。

こころは自分の”もの”なのです。
その心の中心にある気持ち(もの)に気づくことが、自分のため、人のために”こころの余裕”となり作用します。その余裕は自己の治癒力をも気づくのです。

それが「自分で気づく」です。

人に気づかせてもらう

これが自分たちにとって大切なコミュニケーションの1つです。それは「ひとは独りでは活きられない」ことにあるからです。

ぽち☆の話でも何度も云った言葉”人は独りでは活きられない”には、人の心が自分の心の鏡でいるから、幸せな人生(みち)から外れたとき、その鏡に映る「気づき」が作用するのです。

もし良ければこの話もご覧ください。

話を戻します。
人は感情に囚われ易い生き物です。
その感情に囚われると悩みや辛みで中々抜け出せなくさせます。そんなとき、自身の気持ちに「気づかせてくれる」のが人です。それは、その人が気づかせると云うのではなく、同じ”気持ち”を持つもの同士、共感できるできないを”気づかせてくれる”のです。

人の心の中心にある”気持ち”は常に幸せを見分けます。そんな心が”幸せになりたい”と思い、幸せを共感するかしないかで「気づき」ます。

それは”こころの鏡”に共感が映り合うかです。
映らなければ幸せではないと判り、幸せを感じないことを自分たちは嫌がるのです。それは心を正すキッカケであり、それが”こころの余裕”となり作用します。その余裕が自己の治癒力を気づかすのです。

それが「人が気づかせてくれる」です。


引き出せる”もの”

”自分で気づく”にしても、”人に気づかせてもらう”にしても、”こころの余裕”となり作用します。本来、”気づき”はどちらでもよいのです。もともと持つ自己の治癒力となる”こころの余裕”が自己治癒を促します。”こころの自己治癒”は特別なことをする必要もなく、誰もが容易に「触れるだけ」でよいのです。

何に触れるかって。もちろん、心です。
心の中心にある"気持ち"に触れさえすれば、自ずと心の余裕”は正すチカラに作用します。人は”幸せになりたい”と思ってます。誰もがそう思うから幸せに作用させます。

その”触れること”が感情に埋もれた”気持ち”に流れ(おもい)を与えます。それに触れつづけることでその流れは次第にチカラ強くなり、感情に勝るのです。幸せに勝る”もの”はない、その証が『笑顔』です。

自分たちは心があると判っていても、その心を知りません。それも”気持ち”が感情の一部とさえ思っている人もいます。そのため”笑顔”を醸すどころか感情にばかり触れることをしていたのです。

例えば。感情的な人に何を言ってよいか分からずしていたこと。心の病の方にどう接して良いか分からずしていたこと。自分が心の病と言われ”考える”や”思う”ばかりをしていたこと。どれもこれも感情に触れることばかりです。それは笑顔を醸し出せずにいたのではないでしょうか。それでは”気持ち”に触れることはできないのです。

ただ。「気づき」さえできれば、それでも十分なのです。それが”気持ち”に触れるはじまりです。心を知らないからこそ、唯一の術となります。感情に埋もれた”気持ち”に触れるには、ある記憶に触れればよいのです。

記憶を想い出とも云い、人はそれを引き出します。それは自分でも人にでも引き出せる”もの”です。ある記憶とは、記憶の中にある幸せな思い出です。その思い出に触れることが”笑顔”と云う気持ちの表れを引き出します。

知れば知るほど

人との出会いは見ず知らずの時からはじまってます。それはそのまだ会った事のない人でも”幸せになりたい”と思うことを自分たちは知ってます。

そして、初対面を経て相手の事を知ることでその絆を深めます。その知るには相手の幸せな思い出と不幸な思い出があるのも知ります。自分たちは相手を知れば知るほど、その記憶を持ちます。

考えて見て下さい。自分の親兄弟・知人・親友との記憶(おもいで)の中に、その幸せと不幸な記憶を自分が持ますよね。心を知らず、どんなカタチをしてどこにあるのかを知らなくても、その記憶はあるはずです。それは自分自身に対しても同じ。幸せな記憶と不幸な記憶があったと知るはずです。

例えば「いじめ」。
いじめは、相手の嫌がる事をし続けること。それはその人に苦痛という不幸を記憶させる故意です。それをやり続けられればどうなるか。場合によってはその不幸な記憶を引き出し続ける人をつくります。それが心を病す理由にさせてしまいます。人は何を思って”いじめる”のか。自身の大切な心を誤って不幸に使う奴らのことです。

悪い奴ですねぇ。ただ、その人も感情に囚われ気持ちに触れる事ができない人です。「気づき」もできなければ不幸な人です。その人こそ心が病んでいるのです。

この例えは、不幸な記憶を心から引き出す例ですが、それができるならその逆もできる証になります。それが「知れば知るほど」です。

相手の幸せな記憶を”知れば知るほど”、どんなに感情に埋もれた”気持ち”をも触れることができます。それをやり続ければ”いじめ”とは真逆な効果があらわれると云うことです。

それには、心を知らなくても、心の病を治そうとするのでもなく、人が持つ”幸せになりたい”と思う気持ちに触れるだけで引き出します。それが”笑顔”を醸し解ります。

恋人どおしが極普通にしていることです。

誰もが大切な人にしていたことです。

自分たちが知らず知らずに容易にしていたことです。

それは、自身の心にもできることです。

その触れる”もの”を間違えなければよいのです。それが”こころの自己治癒”に気づく術です。

(心のカタチより)

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