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[下調べ]言霊信仰 3 風姿花伝

 世阿弥の「風姿花伝」をパラパラと読んでみたら序の部分に能の歴史が書かれていて、私がWikipediaで理解した感じと少し違うかなと思ったので、追加してみました。
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~Wikipediaと「風姿花伝」世阿弥 水野聡 訳 より~

➡[奈良時代] 

申楽と呼ばれる長寿延命の芸能。その起源をたずねてみると仏在所(インド)より起こったという説、あるいは神代より伝わるという説などがある。しかし時移り代が隔たってしまったので、原初の姿を学ぶことはもはや叶わない。 
…推古天皇(592年~628年在位)の御代、聖徳太子が✳①秦河勝に命じて創作させたものである。ひとつには天下安泰のため、ひとつには緒人娯楽のため六十六番の演目を構成し、申楽と名付けたのであった。
            ~「風姿花伝」世阿弥 水野聡 訳~

 中国から渡ってきた「散楽」を朝廷が管理
・桓武天皇の時代782年に散楽戸制度は廃止され、散楽師達が寺社や庶民の間で芸を披露していき余興として広まる

➡[平安時代(794年 – 1185年)] 

申楽…平安~鎌倉時代に演じられた滑稽・物真似を主とする舞台芸能。一般的には、猿楽と表記。能の前身芸能にあたる。

 散楽の物真似芸とそれまでにあった古来の芸能と結びついて、物まねなどを中心とした滑稽な笑いの芸・寸劇に発展。芝居(能)の要素が加わり「猿楽」が出来上がる。

➡[平安時代中期頃] 
 神道的行事が起源の「田楽」や、仏教の寺院で行われた「延年」などの芸能も興り、それぞれ発達。これらの演者は農民や僧侶。

➡[平安時代末期頃] 
 「田楽」や「延年」の専門的に演じる職業集団も成立していく。

➡[平安時代後期から鎌倉時代初期]
 申楽・田楽・延年は、互いに影響を及ぼしあい発展していく。同業組合としての座が生まれ、寺社の保護を受けるようになる。

以来代々の作者、演者達が✳花鳥風月(自然界の美しい景物)を取り入れ、この芸能に息吹を与えてきたのである。

➡[鎌倉時代(1185年頃 - 1333年)] 
 平安時代に成立した初期の申楽とは異なる芸態の呪術的な「翁申楽」が出現。
 
 翁申楽は寺社の法会や祭礼に取り入れられたため、申楽は✳寺社(神社仏閣)との結びつきを強め、座を組織して公演を催す集団も各地に現れた。一部の申楽の座は、寺社の庇護を得て、その祭礼の際などに芸を披露した。最初は余興的なものとして扱われていたが、寺社の祭礼の中に申楽が重要な要素として組み込まれるような現象も起き始めた。

 寺社の由来や神仏と人々の関わり方を解説するために、申楽の座が寸劇を演じるようなこともあった。これらがやがて、「申楽(猿樂)の能」となり、公家や武家の庇護をも得つつ、能や狂言に発展していったと言われている。
 
 田楽に演劇的な要素が加わって「田楽能」と称されるようになった。

時代は下りかの河勝の遠孫達がこの芸能を継承し、✳②春日神社、✳③日吉神社の神主となった。それで大和や近江の能役者達は両社の神事に今(室町時代)もこぞって申楽を奉納するのである。

➡[南北朝時代(1336年―1392年)] 
 猿楽の滑稽な物まね芸を指す言葉を「狂言」とする

➡[南北朝~室町時代(1336年―1573年)] 
 武家が田楽を保護するようになり、それとともに衣装や小道具・舞台も豪華なものになっていった。このような状況の中、✳④大和申楽の一座である結崎座より申楽師、観阿弥(1333年~1384年)が現れ、旋律に富んだ白拍子の舞である曲舞などを導入して、従来の申楽に大きな革新をもたらした。

 申楽は平安時代には中央的ではなかったが、室町時代になると寺社との結びつきを背景に、延年や田楽の能(物真似や滑稽芸ではない芸能)を取り入れ、現在の能楽とほぼ同等の芸能として集大成された。

 1375年、室町幕府の三代将軍足利義満は、京都の今熊野において、観阿弥とその息子の✳⑤世阿弥(1363年 - 1443年)による申楽を鑑賞した。彼らの芸に感銘を受けた義満は、観阿弥・世阿弥親子の結崎座を庇護した。これがのちの観世座の前身である。この結果、彼らは足利義満という庇護者、そして武家社会という観客を手に入れることとなった。また二条良基をはじめとする京都の公家社会との接点も生まれ、これら上流階級の文化を取り入れることで、彼らは申楽をさらに洗練していった。
 
 その後、六代将軍足利義教も世阿弥の甥音阿弥を高く評価し、その庇護者となった。こうして歴代の観世大夫たちは、時の権力と結びつきながら、申楽を発展させ現在の能の原型として完成させた。

 なお、室町時代に成立した大和申楽の外山座(とびざ)・結崎座(ゆうさきざ)・坂戸座(さかどざ)・円満井座(えんまいざ)を大和四座(やまとしざ)と呼ぶ。それぞれ、後の宝生座・観世座・金剛座・金春座につながるとする説が有力である。

 民衆を対象として仏教の教義を見せる勧進興行において、それまで「翁申楽」のような呪術的性格を持っていた(超自然の存在を主な観客と想定していた)例式に対し、いわば余興芸自然界の美しい景物。演じられた「申楽能」は生身の人々を主な観客と想定する芸能へと進化していった。

 世阿弥の没後も、甥・音阿弥、娘婿・金春禅竹などにより、能は発展を続けますが、応仁の乱による都の荒廃とともに衰退していった。

➡[戦国時代 1467年(1493年)– 1590年]
 戦国時代には、猿楽の芸の内容に大きな発展はなかったと考えられているが、申楽は織田信長豊臣秀吉ら時の権力者に引き続き愛好されていた。

➡[安土桃山時代( 1573年 – 1603年)]
 1593年10月には秀吉は後陽成天皇の前で、3日間続けて何番もの申楽を演じている。しかしその一方で、秀吉は大和四座以外の申楽には興味を示さなかったため、この時期に多くの申楽の座が消滅していった。いわば、現在能と称されている猿楽が、それ以外の申楽から秀吉によって選別されたのである。

➡[江戸時代(1603年 ―1868年)]
 徳川家康や秀忠、家光など歴代の将軍が猿楽を好んだため、猿楽は武家社会の文化資本として大きな意味合いを持つようになった。また猿楽は武家社会における典礼用の正式な音楽(式楽)も担当することとなり、各藩がお抱えの猿楽師を雇うようになった。

 なお、家康も秀吉と同じく大和四座を保護していたが、秀忠は大和四座を離れた申楽師であった喜多七太夫長能に保護を与え、1615年から1624年に喜多流の創設を認めている。
 家康は観世座を好み、秀忠や家光は喜多流を好んだとされるが、綱吉は宝生流を好んだため、綱吉の治世に加賀藩や尾張藩がお抱え猿楽師を金春流から宝生流に入れ替えたと言われている。

➡[明治期(1868年 – 1912年)]
 新たに財閥や政府要人のバックアップも得て、一般の人びとが楽しめる芸能として、盛り返す。家元制度の導入、能と狂言を合わせて「能楽」としたこと、能舞台を屋内に組み込む能楽堂という舞台形態の確立は、明治期以降になされた。現在では、近代的に生まれ変わった家元制度のもと、能は「謡」や「仕舞」のお稽古事としても、裾野を広げている。
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~Wikipediaより~
✳①秦 河勝(はた の かわかつ)
出自  秦氏は3世紀から7世紀頃に大陸から朝鮮半島を経由して日本列島の倭国へ渡来した渡来人集団で、そのルーツは秦の始皇帝ともいう。河勝は秦氏の族長的人物であったとされる。
経歴  秦始皇帝三世孫であり大陸より✳1弓月君と一緒に渡来した部族の子孫の秦氏の一員といわれる。聖徳太子の側近として活躍した。また、富裕な商人でもあり朝廷の財政に関わっていたといわれる。四天王寺の建立や運営については、聖徳太子に強く影響を及ぼし、慈善事業制度(四箇院)の設置に関わった。新羅の仏像を賜った際には宮を寺とし、水田數十町並びに「山野の地」等を✳施入(寺社などに品物や田畑などを寄進すること)した。これが広隆寺である。 推古天皇18年(610年)新羅の使節を迎える導者の任に土部菟(れきち)と共に当る。皇極天皇3年(644年)駿河国富士川周辺で、大生部多(おおうべ の おお、生没年不詳)を中心とした常世神を崇める集団(宗教)を追討している。
芸能の神  夜叉神、また歌舞芸能の神として信仰されており、✳2摩多羅神と同一視されることもある。『風姿花伝』第四によれば、上宮太子(聖徳太子)が秦河勝に「六十六番の物まね」を作らせ、紫宸殿で舞わせたものが「申楽」のはじまりと伝えている。そのため、秦河勝は申楽(猿楽)・能楽の始祖とされ、芸能の神とされた。
✳1弓月君(ゆづきのきみ/生没年不詳)は、『日本書紀』に記述された、秦氏の先祖とされる渡来人である。『新撰姓氏録』では融通王ともいい、百済貴族の後裔または秦の皇帝の後裔とされる。『日本書紀』による帰化の経緯としては、応神天皇14年に弓月君が百済から来朝して窮状を天皇に上奏した。弓月君は百二十県の民を率いての帰化を希望していたが新羅の妨害によって叶わず、葛城襲津彦の助けで弓月君の民は加羅が引き受けるという状況下にあった。しかし三年が経過しても葛城襲津彦は、弓月君の民を連れて帰還することはなかった。そこで、応神天皇16年8月、新羅による妨害の危険を除いて弓月君の民の渡来を実現させるため、平群木菟宿禰と的戸田宿禰が率いる精鋭が加羅に派遣され、新羅国境に展開した。新羅への牽制は功を奏し、無事に弓月君の民が渡来した。弓月君は、『新撰姓氏録』(左京諸蕃・漢・太秦公宿禰の項)によれば、秦始皇帝三世孫、孝武王の後裔であるが、『日本書紀』によると弓月君は百済の120県の人民を率いて帰化したとある。孝武王の子の功満王は仲哀天皇8年に来朝、さらにその子の融通王が別名・弓月君であり、応神天皇14年に来朝したとされる。渡来後の弓月君の民は、養蚕や織絹に従事し、その絹織物は柔らかく「肌」のように暖かいことから波多の姓を賜ることとなったのだという命名説話が記されている。(山城國諸蕃・漢・秦忌寸の項によれば、仁徳天皇の御代に波多姓を賜ったとする。)その後の子孫は氏姓に登呂志公、秦酒公を賜り、雄略天皇の御代に禹都萬佐(うつまさ:太秦)を賜ったと記されている。『日本三代実録』元慶七年十二月(西暦884年1月)、惟宗朝臣の氏姓を賜ることとなった秦宿禰永原、秦公直宗、秦忌寸永宗、秦忌寸越雄、秦公直本らの奏上によると、功満王は秦始皇帝十二世孫である。(子の弓月君は十三世孫に相当。)弓月君の子孫は葛野秦氏などを中心に各地の秦氏の流れへと繋がる。離散・弱体化の進む中で、雄略天皇の御代に秦酒公が一族を再結集させ、確固たる勢力を築いたとされる。『三国志』魏書辰韓伝によれば朝鮮半島の南東部には古くから秦の亡命者が移住しており、そのため辰韓(秦韓)と呼ばれるようになったという記録がある。しかし、これは一説であって、辰韓の辰の語源は東を意味する辰巳である。辰と秦の発音は同様で秦韓とも読める。『宋書』倭国伝では、通称「倭の五王」の一人の珍が元嘉15年(438年)「使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王」を自称しており、明確に秦韓を一国として他と区別している。その後の倭王の斉、興、武の記事にも引き続き秦韓が現れる。(弓月君の帰化の伝承は、この秦韓の歴史に関係するとも考えられてる意見もある。)
✳2摩多羅神(またらじん)は、天台宗、特に玄旨帰命壇における本尊で、阿弥陀経および念仏の守護神ともされる。常行三昧堂(常行堂)の「後戸の神」として知られる。『渓嵐拾葉集』第39「常行堂摩多羅神の事」では、天台宗の円仁が中国(唐)で五台山の引声念仏を相伝し、帰国する際に船中で虚空から摩多羅神の声が聞こえて感得、比叡山に常行堂を建立して勧請し、常行三昧を始修して阿弥陀信仰を始めたと記されている。しかし摩多羅神の祭祀は、平安時代末から鎌倉時代における天台の恵檀二流によるもので、特に檀那流の玄旨帰命壇の成立時と同時期と考えられる。この神は、丁禮多(ていれいた)・爾子多(にした)のニ童子と共に三尊からなり、これは貪・瞋・癡の三毒と煩悩の象徴とされ、衆生の煩悩身がそのまま本覚・法身の妙体であることを示しているという。江戸時代までは、天台宗における灌頂の際に祀られていた。民間信仰においては、大黒天(マハーカーラ)などと習合し、福徳神とされることもある。更に荼枳尼天を制御するものとして病気治療・延命の祈祷としての「能延六月法」に関連付けられることもあった。また一説には、広隆寺の牛祭の祭神は、源信僧都が念仏の守護神としてこの神を勧請して祀ったとされ、東寺の夜叉神もこの摩多羅神であるともいわれる。服部幸雄は、✳3宿神(翁)である秦河勝の実体は摩多羅神であるという論を展開し、摩多羅神と秦河勝は同一視できるとした。円珍が唐から帰国のとき船首に出現した老翁が自らを「新羅明神」と称し、仏法を日本に垂迹すべしと命じた話から、新羅明神との関係が語られる場合もあるが、詳しい関係性は不明である。一般的にこの神の形象は、主神は頭に唐制の頭巾を被り、服は和風の狩衣姿、左手に鼓、右手でこれを打つ姿として描かれる。また左右の丁禮多・爾子多のニ童子は、頭に風折烏帽子、右手に笹、左手に茗荷を持って舞う姿をしている。また中尊の両脇にも竹と茗荷があり、頂上には雲があり、その中に北斗七星が描かれる。これを摩多羅神の曼陀羅という。なお、大黒天と習合し大黒天を本尊とすることもある。この神の祭礼としては、京都太秦・広隆寺の牛祭、岩手県平泉・毛越寺の延年(二十日夜祭)、茨城県・雨引観音のマダラ鬼神祭が知られる。太秦の牛祭(うしまつり)は京の三大奇祭の一つに挙げられる。明治以前は旧暦9月12日の夜半、広隆寺の境内社であった大酒神社の祭りとして執り行われていた。明治に入りしばらく中断していたが、広隆寺の祭りとして復興してからは新暦10月12日に行われるようになった。仮面を着けた「摩吒羅(またら/まだら)神」(摩多羅神)が牛に乗り、四天王と呼ばれる赤鬼・青鬼が松明を持ってそれに従って四周を巡行し、薬師堂前で祭文を独特の調子で読んで参拝者がこれに悪口雑言を浴びせる。祭文を読み終わると摩吒羅神と四天王は堂内に駆け込む。

 大酒神社社伝によれば、平安時代、比叡山の恵信僧都(源信)が極楽浄土の阿弥陀如来を拝する願いを持っていたところ、広隆寺絵堂(講堂)のご本尊を拝めばよいと夢のお告げがあり、恵心は大いに喜んで三尊像を手彫りして念仏会を修た。そして常行念佛堂を建立し、念仏守護の神、摩吒羅神を勧請して祈祷したのが始まりとされている。かつては毎年10月12日に行われていたが、現在は牛の調達が困難のため不定期開催となっており、特に近年では暫く実施されておらず今後も再開の見通しもたっていない。
✳3明宿集における「翁」論 
宗教人類学者中沢新一によれば、1964年(昭和39年)に偶然発見された金春禅竹による『明宿集』には、「翁」(宿神)の意味・神々の世界の中での宿神の位置などについて多数記述されていた。『明宿集』とは、禅竹が一座の後進のために、猿楽で最も重要な精神的価値を持つ「翁」の本質を明らかにしようとして書いた、一種の内部文書である。そのためこの書は、同じ精神的伝統を持つ者たちに向けられており、相当に大胆な思考がなされている。内容は一部分だけでも、芸能史・神話学・社会史・民俗学の側面へと広がっている。
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✳②春日神社 「春日」を社名に持ち春日神を祭神とする神社。全国に約1,000社あり、奈良県奈良市の✳1春日大社を総本社とする。
✳1春日大社 奈良時代の神護景雲2年(768年)に平城京の守護と国民の繁栄を祈願するために創建され、中臣氏・藤原氏の氏神を祀る。主祭神の武甕槌命が白鹿に乗ってきたとされることから、鹿を神使とする。
祭神  主祭神は以下の4柱。総称して春日神と呼ばれ、藤原氏の氏神である。
✳2武甕槌命 - 藤原氏守護神(常陸国鹿島の神)
経津主命 - 同上(下総国香取の神)
天児屋根命 - 藤原氏の祖神(河内国平岡の神)
比売神 - 天児屋根命の妻(同上)
歴史  奈良・平城京に遷都された和銅3年(710年)、藤原不比等が藤原氏の氏神である鹿島神(武甕槌命)を春日の御蓋山(みかさやま)に遷して祀り、春日神と称したのに始まるとする説もあるが、社伝では、神護景雲2年(768年)に藤原永手が鹿島の武甕槌命、香取の経津主命と、枚岡神社に祀られていた天児屋根命・比売神を併せ、御蓋山の麓の四殿の社殿を造営したのをもって創祀としている。ただし、近年の境内の発掘調査により、神護景雲以前よりこの地で祭祀が行われていた可能性も出てきている。藤原氏の隆盛とともに当社も隆盛した。平安時代初期には官祭が行われるようになった。当社の例祭である春日祭は、賀茂神社の葵祭、石清水八幡宮の石清水祭とともに三勅祭の一つとされる。嘉祥3年(850年)には武甕槌命・経津主命が、天慶3年(940年)には、朝廷から天児屋根命が最高位である正一位の神階を授かった。『延喜式神名帳』には「大和国添上郡 春日祭神四座」と記載され、名神大社に列し、月次・新嘗の幣帛に預ると記されている。藤原氏の氏神・氏寺の関係から興福寺との関係が深く、弘仁4年(813年)、藤原冬嗣が興福寺南円堂を建立した際、その本尊の不空羂索観音が、当社の祭神・武甕槌命の本地仏とされた。神仏習合が進むにつれ、春日大社と✳3興福寺は一体のものとなっていった。11世紀末から興福寺衆徒らによる強訴がたびたび行われるようになったが、その手段として、春日大社の神霊を移した榊の木(神木)を奉じて上洛する「神木動座」があった。明治4年(1871年)に春日神社に改称するとともに官幣大社に列し「官幣大社春日神社」となった。昭和21年(1946年)12月、近代社格制度の廃止に伴い、そのままでは単に「春日神社」となって他の多くの春日神社と混同することを避けるために現在の「春日大社」に改称した。平成10年(1998年)にユネスコの世界遺産(文化遺産)に「古都奈良の文化財」の1つとして登録された。創建以来ほぼ20年に一度、本殿の位置を変えずに建て替えもしくは修復を行い御神宝の新調を行う「式年造替」を行ってきており、最近では平成27年(2015年)から平成28年(2016年)にかけて第60次式年造替が行われた。
✳2武甕槌命 『古事記』では建御雷之男神(たけみかづちのおのかみ)、建御雷神(たけみかづちのかみ)、別名に建布都神(たけふつのかみ)、豊布都神(とよふつのかみ)と記され、『日本書紀』では武甕槌や武甕雷男神などと表記される。単に「建雷命」と書かれることもある。また、鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)の主神として祀られていることから鹿島神(かしまのかみ)とも呼ばれる。雷神、かつ剣の神とされる。後述するように建御名方神と並んで相撲の元祖ともされる神である。また鯰絵では、要石に住まう日本に地震を引き起こす大鯰を御するはずの存在として多くの例で描かれている。
古事記・日本書紀における記述  神産みにおいて伊邪那岐命(伊弉諾尊・いざなぎ)が火神火之夜芸速男神(カグツチ)の首を切り落とした際、十束剣「天之尾羽張」(アメノオハバリ)の根元についた血が岩に飛び散って生まれた三神の一柱である。剣のまたの名は伊都尾羽張(イツノオハバリ)という。『日本書紀』では、このとき甕速日神(ミカハヤヒノカミ)という建御雷の租が生まれたという伝承と、建御雷も生まれたという伝承を併記している。
葦原中国平定  「出雲の国譲り」の段においては伊都之尾羽張(イツノオハバリ)の子と記述されるが、前述どおり伊都之尾羽張は天之尾羽張の別名である。天照大御神は、建御雷神かその父伊都之尾羽張を下界の平定に派遣したいと所望したが、建御雷神が天鳥船(アメノトリフネ)とともに降臨する運びとなる。出雲の伊耶佐小浜(いざさのおはま)に降り立った建御雷神は、十掬の剣(とつかのつるぎ)を波の上に逆さに突き立てて、なんとその切っ先の上に胡坐をかいて、大国主神(オオクニヌシノカミ)に対して国譲りの談判をおこなった。大国主神は、国を天津神に譲るか否かを子らに託した。子のひとり事代主神は、すんなり服従した。もう一人、建御名方神(タケミナカタ)(諏訪の諏訪大社上社の祭神)は、建御雷神に力比べをもちかけるも、手づかみの試合で手をつららや剣に変身させ、怯んだ建御名方神はその隙に一捻りにされたため、恐懼して遁走し、科野国の洲羽の湖で降伏した。これによって国譲りがなった。このときの建御名方神との戦いは相撲の起源とされている。『日本書紀』では葦原中国平定の段で下界に降される二柱は、武甕槌と経津主神である。(ちなみに、この武甕槌は鹿島神社の主神、経津主神は香取神社の主神となっている。上代において、関東・東北の平定は、この二大軍神の加護に祈祷して行われたので、この地方にはこれらの神の分社が多く建立する。)『日本書紀』によれば、この二柱がやはり出雲の五十田狭小汀(いたさのおはま)に降り立って、十握の剣(とつかのつるぎ)を砂に突き立て、大己貴神(おおあなむち、大国主神のこと)に国譲りをせまる。タケミナカタとの力比べの説話は欠落するが、結局、大己貴神は自分の征服に役立てた広矛を献上して恭順の意を示す。ところが、二神の前で大己貴命がふたたび懐疑心を示した(翻意した?)ため、天津神は、国を皇孫に任せる見返りに、立派な宮を住まいとして建てるとして大己貴命を説得した。また同箇所に、二神が打ち負かすべく相手として天津甕星の名があげられ、これを征した神が、香取に座すると書かれている。ただし、少し前のくだりによれば、この星の神を服従させたのは建葉槌命(たけはづち)であった。
神武東征  さらに後世の神武東征においては、建御雷の剣が熊野で手こずっていた神武天皇を助けている。熊野で熊が出現したため(『古事記』)、あるいは毒気(『日本書紀』)によって、神武も全軍も気を失うか力が萎えきってしまったが、高倉下(たかくらじ)が献上した剣を持ち寄ると天皇は目をさまし、振るうまでもなくおのずと熊野の悪神たちをことごとく切り伏せることができた。神武が事情をたずねると高倉下の夢枕に神々があらわれ、アマテラスやタカミムスビ(高木神)が、かつて「葦原中国の平定の経験あるタケミカヅチにいまいちど降臨して手助けせよ」と命じるいきおいだったが、建御雷は「かつて使用した自分の剣をさずければ事は成る」と言い、(高倉下の)倉に穴をあけてねじ込み、神武のところへ運んで貢がせたのだという。その剣は布都御魂(ふつのみたま)のほか、佐士布都神(さじふつのかみ)、甕布都神(みかふつのかみ)の別名でも呼ばれている(石上神宮のご神体である)。
考証  混同されがちな経津主神は別の神で、『日本書紀』では葦原中国平定でタケミカヅチとともに降ったのは経津主神であると記されている。経津主神は香取神宮で祀られている物部氏の神である。名義は甕速日神と共に産まれてきたことから、名義は「甕(ミカ)」、「津(ヅ)」、「霊(チ)」、つまり「カメの神霊」とする説、「建」は「勇猛な」、「御」は「神秘的な」、「雷」は「厳つ霊(雷)」の意で、名義は「勇猛な、神秘的な雷の男」とする説がある。また雷神説に賛同しつつも、「甕」から卜占の神の性格を持つとする説がある。祭祀を司る中臣氏が倭建命の東国征伐と共に鹿島を含む常総地方に定着し、古くから鹿島神ことタケミカヅチを祖神として信奉していたことから、平城京に春日大社(奈良県奈良市)が作られると、中臣氏は鹿島神を勧請し、一族の氏神とした。元々は常陸の多氏(おおうじ:皇別氏族屈指の古族であり、神武天皇の子の神八井耳命の後裔とされる)が信仰していた鹿島の土着神(国津神)で、海上交通の神として信仰されていたとする説がある。大和岩雄の考察によれば、もともと「大忌」つまり神事のうえで上位であるはずの多氏の祭神であったのだが、もとは「小忌」であった中臣氏にとってかわられ、氏神ごと乗っ取られてしまったのだという(『神社と古代王権祭祀』)。一方で宝賀寿男は系図、習俗・祭祀、活動地域、他氏族との関わりから、多氏を天孫族、中臣氏を山祇族に位置づけ、建御雷神を最初から中臣氏が祖神として奉斎した氏神(天児屋命の父神)と推定した。この説によると、山祇族(紀国造、大伴氏、久米氏、隼人等)は月神、火神、雷神、蛇神と縁が深く、これらを祖神としてきたため、祖系には火神・雷神が複数おり、そこから建御雷神の位置づけを推定したとする。さらにはヤマト王権の東国進出の際、鹿島が重要な拠点となったが、東方制覇の成就祈願の対象も鹿島・香取の神であることは葦原中国平定で既に述べた。こうしたことで、タケミカヅチがヤマト王権にとって重要な神とされることになった。
信仰  鹿島神宮、春日大社および全国の鹿島神社・春日神社で祀られている。
✳3興福寺 興福寺(こうふくじ)は、奈良県奈良市登大路町(のぼりおおじちょう)にある、南都六宗の一つ、✳4法相宗大本山である日本の仏教寺院。南都七大寺の一つに数えられる。寺院本尊は中金堂の釈迦如来であり、南円堂(本尊・不空羂索観世音菩薩〈不空羂索観音〉)は西国三十三所第9番札所となっている。
藤原氏の祖・藤原鎌足とその子息・藤原不比等ゆかりの寺院で、藤原氏の氏寺であり、古代から中世にかけて強大な勢力を誇った。「古都奈良の文化財」の一部として世界遺産に登録されている。
歴史 創建  藤原鎌足夫人の鏡大王が夫の病気平癒を願い、鎌足発願の釈迦三尊像を本尊として、天智天皇8年(669年)に山背国山階(現・京都府京都市山科区)で創建した山階寺(やましなでら)が当寺の起源である。壬申の乱のあった天武天皇元年(672年)、山階寺は藤原京に移り、地名の高市郡厩坂をとって厩坂寺(うまやさかでら)と称した。和銅3年(710年)の平城京への遷都に際し、鎌足の子不比等は厩坂寺を平城京左京の現在地に移転し「興福寺」と名付けた。この710年が実質的な興福寺の創建年と言える。中金堂の建築は平城遷都後まもなく開始されたものと見られる。その後も、天皇や皇后、また藤原家によって堂塔が建てられ、伽藍の整備が進められた。不比等が没した養老4年(720年)には「造興福寺仏殿司」という役所が設けられ、元来、藤原氏の私寺である興福寺の造営は国家の手で進められるようになった。
南都北嶺  興福寺は奈良時代には四大寺、平安時代には七大寺の一つに数えられ、特に摂関家藤原北家との関係が深かったために手厚く保護された。平安時代には春日社(藤原氏の氏神)の実権を持ち、大和国一国の荘園のほとんどを領して、事実上の同国の国主となった。その勢力の強大さは、比叡山延暦寺とともに「南都北嶺」と称された。寺の周辺には塔頭と称する多くの付属寺院が建てられ、最盛期には百か院以上を数えた。中でも天禄元年(970年)に定昭の創立した一乗院と寛治元年(1087年)隆禅の創立した大乗院は皇族・摂関家の子弟が入寺する門跡寺院として栄えた。鎌倉・室町時代の武士の時代になっても大和武士 と僧兵等を擁し強大な力を持っていたため、鎌倉幕府や室町幕府は守護を置くことができず、大和国は実質的に興福寺の支配下にあり続けた。安土桃山時代に至って織豊政権に屈し、文禄4年(1595年)の検地では、春日社興福寺合体の知行として2万1,000余石とされた。
平重衡の兵火による焼失  興福寺は創建以来、度々火災に見舞われ、その都度再建を繰り返してきた。2018年に再建された中金堂は兵火や落雷により七度焼失している。中でも治承4年(1180年)、治承・寿永の乱(源平合戦)の最中に行われた平重衡の南都焼討による被害は甚大で、東大寺とともに大半の伽藍が焼失した。 この時、焼失直後に別当職に就いた信円と解脱上人貞慶らが奔走。朝廷や藤原氏との交渉の結果、平氏政権が朝廷の実権を握っていた時期に一旦収公されて取り上げられていた荘園が実質的に興福寺側へ返却され、朝廷と藤原氏長者、興福寺の3者で費用を分担して、復興事業が実施されることとなった。現存の興福寺の建物は全てこの火災以後のものである。なお仏像をはじめとする寺宝類も多数が焼失したため、現存するものはこの火災以後の鎌倉復興期に制作されたものが多い。興福寺を拠点とした運慶ら慶派仏師の手になる仏像もこの時期に数多く作られている。江戸時代の享保2年(1717年)の火災の時は、時代背景の変化もあって大規模な復興はなされず、この時に焼けた西金堂、講堂、南大門などは再建されず、金堂も1世紀以上経過した後にようやく安普請の「仮金堂」が建てられた。江戸時代は2万1,000石の寺領を与えられていた。
廃仏毀釈による破壊  慶応4年(1868年)に出された神仏分離令は、全国に廃仏毀釈を引き起こし、春日社と一体の信仰(神仏習合)が行われていた興福寺は大きな打撃をこうむった。興福寺別当だった一乗院および大乗院の門主は還俗し、それぞれ水谷川家、松園家と名乗った(奈良華族)。子院は全て廃止、寺領は1871年(明治4年)の上知令で没収され、僧は春日社の神職となった。境内は塀が取り払われ、樹木が植えられて、奈良公園の一部となってしまった。一乗院跡は現在の奈良地方裁判所、大乗院跡は奈良ホテルとなっている。一時は廃寺同然となり、五重塔、三重塔さえ売りに出る始末だった。五重塔は250円(値段には諸説ある)で買い手がつき、買主は塔自体は燃やして金目の金具類だけを取り出そうとしたが、延焼を心配する近隣住民の反対で火を付けるのは取りやめになったという。ただし、五重塔が焼かれなかった理由はそれだけでなく、塔を残しておいた方が観光客の誘致に有利だという意見もあったという。
現在  1998年に世界遺産に登録され、1999年から国の史跡整備保存事業として、発掘調査が進められている。平城京での創建1300年を機に中金堂と南大門の再建が計画された。中金堂は2018年10月に落慶法要を迎えた(7日~11日)。中心部の巨柱は国内で檜の大木が入手しにくく、宮大工棟梁の提案でカメルーン産欅を取り寄せて使った。
✳4法相宗  インド瑜伽行派(唯識派)の思想を継承する、中国の唐時代創始の大乗仏教宗派の一つ。645年、中インドから玄奘が帰国し唯識説が伝えられることになる。その玄奘の弟子の慈恩大師基(窺基)が開いた宗派である。唯識宗・慈恩宗・中道宗とも呼ばれる。705年に華厳宗が隆盛になるにしたがい、宗派としてはしだいに衰えた。日本仏教における法相宗は、玄奘に師事した✳5道昭が法興寺(飛鳥寺)で広め、南都六宗の一つとして8-9世紀に隆盛を極めた。有名な寺としては、薬師寺・興福寺などがある。
歴史と特徴  唐代、645年(貞観19年)中インドから玄奘が帰国して、ヴァスバンドゥ(世親)の『唯識三十頌』をダルマパーラ(護法)が注釈した唯識説を中心にまとめた『成唯識論』を訳出編集した。この論を中心に、『解深密経』などを所依の経論として、玄奘の弟子の慈恩大師基(一般に窺基と呼ぶ)が開いた宗派である。そのため、唯識宗・慈恩宗とも呼ばれる。この時代の仏教宗派とは後世の宗派とは異なり、学派的なものであり、寺が固定されたり、教団となったりすることは少ない。また、基と同じ玄奘の門人である円測の系統も広義では法相宗と呼び、門人の道證の時代に隆盛を迎えたが以後に人を得ず開元年間には基の系統に吸収されてしまった。玄奘と基が唐の高宗の厚い信任を得たことから、法相宗は一世を風靡した。しかし、その教義がインド仏教を直輸入した色彩が濃く、教理体系が繁雑をきわめたこともあり、武周朝(690年 - 705年)に法蔵の華厳宗が隆盛になるにしたがい、宗派としてはしだいに衰え、安史の乱や会昌の廃仏によって致命的な打撃を受けた。その後、宋・元の頃に中国仏教史では、法相宗は姿を消したと考えられているが、詳細は不明である。
教義  法相(ほっそう)とは、存在のあり方を指す。個々の具体的存在現象のあり方だけでなく、一切の事物の存在現象の区分やその有様も指している。実際には、存在現象そのものに関しては、説一切有部などの部派仏教を中心に研究が進められ、その研究の上に、存在現象のあり方を、我々人間がどのように認識しているのか、という研究が進められた。さらに、最終的には一切の存在現象はただ識に過ぎないとする。さらに三性説を立て、人間が縁起の理法に気付く(覚る)までをダイナミックに分析する。三性とは、事物は縁起に依るという依他起性、それに気付かずに執着するという遍計所執性、縁起を覚って円らかになる円成実性である。基は師の玄奘が訳出した『成唯識論』を注釈し、一切法の相を五位百法に分類し分析的に説明した。この相と性を学ぶことを合わせて性相学という。(→唯識)
✳5道昭(629年- 700年)は、河内国丹比郡船連(ふねのむらじ)(現・大阪府堺市)出身の法相宗の僧である。父は✳6船恵尺
略歴   白雉4年(653年)、遣唐使の一員として定恵らとともに入唐し、玄奘三蔵に師事して法相教学を学ぶ。玄奘はこの異国の学僧を大切にし、同室で暮らしながら指導をしたという。摂論教学を学んだという記録もあるが、摂大乗論に関する注釈は現存していない。
年時不明、玄奘の紹介で隆化寺の恵満に参禅した。
斉明天皇6年(660年)頃に帰朝、同時に持ち帰った多くの経論・経典類は、平城京へ遷都後、平城右京の禅院に移され重用された。
年時不明、飛鳥寺(別称は法興寺、元興寺)の一隅に禅院を建立して住み、日本法相教学の初伝となった(南寺伝)。
680年、天武天皇の勅命を受けて、往生院を建立する。
晩年は全国を遊行し、各地で土木事業を行った。
700年に72歳で没した際、遺命により日本で初めて火葬に付された。その記録も現存している(『続日本紀』)。
玄奘三蔵に贈られた言葉  『続日本紀』には、道昭が没した年の条に、昔、玄奘に贈られた言葉として、いくつか記録が残されている。それによると、玄奘は特に可愛がって同じ部屋に住まわせたとされ、以下のような話をしたとされる。「私が昔、西域に旅した時、道中飢えに苦しんだが、食を乞う所もなかった。突然一人の僧が現れ、手に持っていた梨の実を私に与えて食べさせてくれた。私はその梨を食べてから気力が日々健やかになった。今お前こそはあの時の梨を与えてくれた法師と同様である」と述べたと記されており、道昭を大切にしていたのは、過去に出会った恩人たる僧侶と道昭を重ねていたためとしている。「経論は奥深く微妙で、究めつくすことは難しい。それよりお前は禅を学んで、東の国の日本に広めるのがよかろう」と禅の修行をすすめ、道昭はそれを守った。帰朝の際、玄奘から舎利と経論を授けられ、また、西域を旅した際に手に入れた霊験あらたかな鍋を与えた(『論語』から引用して、「道を弘める」という言葉も贈っている)。この鍋で病人に食を与えて治療したが、帰路の船上において、なかなか船が進まないのは海神竜王が鍋を欲しているからだといわれ、「玄奘から与えられた鍋をどうして竜王が欲するのだ」と文句を言いながらも、やむなく海中に投げ入れている(そのため、鍋については現存していない)。
逸話   『続日本紀』に記述されたエピソードとして、弟子がひととなりを試そうと思い、道昭の便器に穴をあけておいた。そのため、穴から漏れた汚物で寝具が汚れてしまった。しかし、道昭は微笑みながら「いたずら小僧が、人の寝床を汚したな」といったのみで、一言の文句もいわなかったとされる。同『続紀』の記述として、熱心に座禅を行っており、ある時は3日に一度起(た)ったり、7日に一度起った。ある日、道昭の居間から香気が流れ出て、弟子達が驚いて、居間へ行くと、縄床(じょうしょう=縄を張って作った腰かけ)に端座したまま息絶えていた。遺言に従って、本朝初の火葬が行なわれたが、親族と弟子達が争って骨をかき集めようとした。すると不思議なことに、つむじ風が起こって、灰と骨をいずこかへ飛ばしてしまったとされる。従って、骨は残されていない。
✳6船 恵尺(ふね の えさか)は、飛鳥時代の人物。名は恵釈とも書かれる。姓は史のち連。✳7王辰爾の曾孫で、船龍の子とする系図がある。冠位は小錦下。蘇我蝦夷の自害の現場に居合わせたことで知られる。
経歴   皇極天皇4年(645年)に発生した乙巳の変において、蘇我蝦夷の自害に居合わせ、その現場である焼け落ちる邸宅にあった『天皇記』『国記』のうち『国記』を火中から取り出して持ち出したという。のちに、焼失を免れた『国記』は中大兄皇子(後の天智天皇)に献上したとされるが、現存していない。『天皇記』『国記』編纂のため日頃より蝦夷邸に出入りしていた恵尺は、クーデター派の命令で密偵的な働きをしていたのではないか、という説も存在する。このエピソードから船恵尺が当時、蘇我氏の下で『国記』など歴史書の編纂に当たっていたと考えられる。天智朝以降に冠位は小錦下に至った。なお、2005年11月13日に奈良県高市郡明日香村の甘樫丘地区にて、建物跡や塀の跡、焼けて硬化した土の層などを含む7世紀の遺構(甘樫丘東麓遺跡)が発見され、『日本書紀』の記述を裏付ける蘇我入鹿の邸宅である可能性もあるとして現在も発掘作業が進められているが、現在発見されている建物跡は蘇我入鹿の邸宅としてはあまりに規模が小さすぎるため、まだ断定はされていない。しかしながら、今後の発掘次第では『天皇記』『国記』の一部が発見される可能性もある。
系譜  父:船龍 母:不詳 生母不明の子女 男子:道昭 男子:船奈勢麻呂?
✳7王辰爾(おうしんに生没年不詳)は、飛鳥時代の人物。名は智仁とも記される。氏姓は船史。第16代百済王・辰斯王の子である辰孫王の後裔で、塩君または午定君の子。渡来系氏族である船氏の祖。学問に秀で、儒教の普及にも貢献したとされる。
経歴  欽明天皇14年(553年)勅命を受けた蘇我稲目によって派遣され、船の賦(税)の記録を行った。この功績によって、王辰爾は船司に任ぜられるとともに、船史姓を与えられた。また、敏達天皇元年(572年)には、多くの史が3日かけても誰も読むことのできなかった高句麗からの上表文を解読し、敏達天皇と大臣・蘇我馬子から賞賛され、殿内に侍して仕えるように命ぜられた。上表文はカラスの羽に書かれており、羽の黒い色に紛れてそのままでは読めないようにされていたが、羽を炊飯の湯気で湿らせて帛に文字を写し取るという方法で解読を可能にしたという。『懐風藻』の序文には、「王仁は軽島に於いて(応神天皇の御代に)啓蒙を始め、辰爾は訳田に於いて(敏達天皇の御代に)教えを広め終え、遂に俗を漸次『洙泗の風』(儒教の学風)へ、人を『斉魯の学』(儒教の学問)へ向かわしめた」と表現されている。鈴木靖民や加藤謙吉によると、『日本書紀』の王辰爾の伝承は船氏が西文氏の王仁の伝説をまねて創作されたものだという。田中史夫は、王辰爾が中国系の王氏の姓を持っていることに着目しており、鈴木靖民によると、実際は王辰爾の代に新しく渡来した中国南朝系百済人だという。
子孫・同族  子に那沛故が、孫に船王後がおり、子孫はのち連姓に改姓し、さらに一部は天長年間(830年頃)に御船氏(御船連・御船宿禰)に改姓している。延暦9年(790年)に菅野朝臣姓を賜る事を請願した百済王仁貞・元信・忠信および津真道らの上表によれば、辰爾には兄の味沙と弟の麻呂がおり、それぞれ葛井連・津連の租である。また、これに合致する形で新撰姓氏録において辰孫王の後裔に相当する氏族に、右京の菅野朝臣・葛井宿禰・宮原宿禰・津宿禰・中科宿禰・船連のほか、摂津国の船連などがみえる。『日本書紀』によれば、欽明天皇30年(569年)には王辰爾の甥の胆津が白猪屯倉に派遣され、田部の丁籍が定められた。これにより胆津には白猪史の姓が授けられ、田令に任ぜられた。さらに敏達天皇3年(574年)10月には船史王辰爾の弟の牛が津史姓を与えられた。

✳③日吉神社 (ひえ/ひよし)は、滋賀県大津市坂本にある山王総本宮✳1日吉大社を勧請して日本各地に建立された神社である。
✳1日吉大社  全国に約3,800社ある日吉・日枝・山王神社の総本社である。通称として山王権現とも呼ばれる。猿を神の使いとする。
祭神  2つの本宮と以下の5つの摂社から成り、日吉七社・山王七社と呼ばれる。
本宮 西本宮:大己貴神(大国主神に同じ)東本宮:✳2大山咋神
5摂社 牛尾宮:大山咋神荒魂 - 大山咋神の荒魂 
樹下宮:鴨玉依姫命 
三宮宮:鴨玉依姫命荒魂 - 鴨玉依姫命の荒魂 
宇佐宮:田心姫神 白山宮:菊理姫命
歴史  文献では、『古事記』に「大山咋神、亦の名を山末之大主神。此の神は近淡海国の日枝の山に坐し」とあるのが初見だが、これは、日吉大社の東本宮の祭神・大山咋神について記したものである。日枝の山(ひえのやま)とは後の比叡山のことである。日吉大社は、崇神天皇7年に日枝山の山頂から現在の地に移されたという。また、日吉大社の東本宮は、本来、牛尾山(八王子山)山頂の磐座を挟んだ2社(牛尾神社・三宮神社)のうち、牛尾神社の里宮として、崇神天皇7年に創祀されたものとも伝えられている。なお、三宮神社に対する里宮は樹下神社である。西本宮の祭神・大己貴神については、大津京遷都の翌年である天智天皇7年(668年)、大津京鎮護のため大神神社の神が勧請されたという。以降、元々の神である大山咋神よりも大己貴神の方が上位とみなされるようになり、「大宮」と呼ばれた。平安京遷都により、当社が京の鬼門に当たることから、鬼門除け・災難除けの社として崇敬されるようになった。神階としては、元慶4年(880年)に西本宮の祭神が、寿永2年(1183年)に東本宮の祭神が、それぞれ正一位に叙せられた。『延喜式神名帳』では名神大社に列格し、さらに長暦3年(1040年)、二十二社の一社ともなった。最澄が比叡山上に延暦寺を建立し、比叡山の地主神である当社を、天台宗・延暦寺の守護神として崇敬した。唐の天台宗の本山である天台山国清寺で祀られていた山王元弼真君にならって山王権現と呼ばれるようになった。延暦寺では、山王権現に対する信仰と天台宗の教えを結びつけて山王神道を説いた。中世に比叡山の僧兵が強訴のために担ぎ出したみこしは日吉大社のものである。天台宗が全国に広がる過程で、日吉社も全国に勧請・創建され、現代の天台教学が成立するまでに、与えた影響は大きいとされる。元亀2年(1571年)、織田信長の比叡山焼き討ちにより、日吉大社も灰燼に帰した。現在見られる建造物は安土桃山時代以降、天正14年(1586年)から慶長2年(1597年)にかけて再建されたものである。信長の死後、豊臣秀吉と徳川家康は山王信仰が篤く、特に秀吉は、当社の復興に尽力した。これは、秀吉の幼名を「日吉丸」といい、あだ名が「猿」であったことから、当社を特別な神社と考えたためである。明治に入ると神仏分離令により、仏教色が廃された。また、本来の形に戻すとして、東本宮と西本宮の祭神を入れ替えて西本宮の大山咋神を主祭神とし、大物主神を祀る東本宮は摂社・大神神社に格下げした。1871年(明治4年)、官幣大社となった。1928年(昭和3年)、東本宮・西本宮ともに官幣大社となり、元の形に復した。2006年(平成18年)6月7日、歴史的風土特別保存地区に指定された。
境内  かつては境内108社・境外108社と言われていた。以下に示す21社は主なものであり、山王二十一社と総称される。旧称は江戸時代までの神仏習合時代の名称である。東本宮境内の各社は、「大山咋神の家族および生活を導く神々」と説明されている。境内入口北側には元三大師良源ゆかりの求法寺がある。
祭事 大戸開き神事(1月1日) - 歳旦祭にあたるもので、日の出の前に、松明の火に照らされる中、片山能太夫によって、西本宮では能の「翁」(日吉の翁)が、東本宮では謡曲の「高砂」が奉納される。 このときの松明の火を自宅へ持ち帰って炊事に使う風習があるため、発火とも呼ばれる。
山王祭(4月14日) - およそ1300年前、三輪明神が坂本に移ったとき、地元の人が大榊を奉納したのが起源とされ、祭礼の期間は、神輿上げ・大榊の神事・午の神事・献茶祭・花渡り・宵宮落とし・粟津の御供・神輿の還御・酉の神事・船路の御供まで、1ヶ月半に及ぶ。 特に山王七社の神輿の渡御は豪華であり、大榊の神事が静寂の中で行われるのと対照的であるという。
山王礼拝講(5月26日) - 万寿2年(1025年)、僧が修行もせずに僧兵としての活動ばかりしていることが嘆かれ、西本宮にて、日吉大神を祀る法華八講が開催されたことが起源とされる。修祓や祝詞の後、法華経の問答が行われ、神仏習合の名残がうかがわれる。
みたらし祭り(7月) - 摂社である唐崎神社で開催される、夏越しの大祓神事。大祓、茅の輪くぐり、人形流し、琵琶湖の湖上での護摩木のお焚き上あげなどが行われる。下半身の病気や、婦人科の病気に神徳があるとされる。なお、唐崎神社は七瀬の祓所のひとつとされる。
もみじ祭(11月) - さまざまな行事のほか坂本地区一帯をふくめライトアップが行われる。

文化財 国宝  西本宮本殿 - 天正14年(1586年)の建立。檜皮(ひわだ)葺きで、屋根形式は「日吉造」という、日吉大社特有のもの。正面から見ると入母屋造に見えるが、背面中央の庇(ひさし)部分の軒を切り上げ、この部分が垂直に断ち切られたような形態(縋破風)になっているのが特色。
東本宮本殿 - 文禄4年(1595年)の建立。建築形式は西本宮本殿に似る。昭和初期までは「大神神社本殿」と呼ばれていた。
✳2大山咋神(おおやまくいのかみ)は、日本神話に登場する神。概要  『古事記』、『先代旧事本紀』「地祇本紀」では大山咋神と表記し、『古事記』では別名を山末之大主神(やますえのおおぬしのかみ)と伝える。大年神と天知迦流美豆比売(あめちかるみずひめ)の間の子である。
考証 名前の「くい(くひ)」は杭のことで、大山に杭を打つ神、すなわち大きな山の所有者の神を意味し、山の地主神であり、また、農耕(治水)を司る神とされる。『古事記』では、近江国の日枝山(ひえのやま、後の比叡山)および葛野(かづの、葛野郡、現京都市)の松尾に鎮座し、鳴鏑を神体とすると記されている。なお、大山咋神は里山に鎮まるとされることから、『古事記』の「日枝山」とは、比叡山全体というより、里山である八王子山(比叡山の一部)を指すとする説もある。「日枝山」には日吉大社が、松尾には松尾大社があり、ともに大山咋神を祀っている。日枝山と松尾については、共通の祭神を祀る社の存在だけではなく、八王子山と松尾山の両方に巨大な磐座と、古墳群(日吉社東本宮古墳群、松尾山古墳群)が存在し、共通点が多いことが指摘されている。特に、古墳群については、それらの古墳の埋葬者の勢力範囲と、大山咋神の神域とされる範囲の一致する可能性が指摘されている。比叡山に天台宗の延暦寺ができてからは、最澄によって、天台宗および延暦寺の結界を守る守護神ともされた。大山咋神の別名山王(さんのう)は中国天台山の鎮守「地主山王元弼真君」に倣ったものである。なお、比叡山には、本来、山の全域において、大山咋神の他にも多数の神が祀られており、最澄が延暦寺の守護神として認識したのは、大山咋神だけでなく、その他の「諸山王」を含めた、比叡山の神々全体のことであったとも指摘されている。天台宗が興した神道の一派を山王神道と言い、後に天海が山王一実神道と改めた。 太田道灌が江戸城の守護神として川越日吉社から大山咋神を勧請して日枝神社を建てた。江戸時代には徳川家の氏神とされ、明治以降は皇居の鎮守とされている。
神社  比叡山の麓の日吉大社(滋賀県大津市)が大山咋神を祀る全国の日枝神社の総本社である。日吉大社には後に大物主神が勧請されており、大物主神を大比叡、大山咋神を小比叡と呼ぶ。山王は二神の総称である。大物主神は西本宮に、大山咋神は東本宮に祀られている。そのほか、日枝神社(東京都千代田区)、松尾大社(京都市西京区)および全国の日枝神社、松尾神社で祀られている。伊勢神宮豊受大神宮(外宮)の摂社である山末神社は大山津姫命を祀るが、大山咋神が祭神だとする説もある。
大山咋命 おおやまくいのみこと
大山積神 おおやまつみのかみ
大山津見神 おおやまつみのかみ
大山祇命 おおやまつみのみこと
和多志大神 わたしのおおかみ
賀茂神社  『秦氏本系帳』に記載がある丹塗矢の神話によると、上賀茂神社(賀茂別雷神社)の賀茂別雷大神は✳3松尾大社の祭神、すなわち、大山咋神とされるという。賀茂別雷神社の神山(こうやま)には、日吉大社、松尾大社と同様に、巨大な磐座があり、陰陽道の影響が強いなど、三社の共通点が指摘されている。また、日吉大社の山王祭は、大山咋神と鴨玉依姫神の結婚を再現しているともされる。

✳3松尾大社 (まつのおたいしゃ/まつおたいしゃ)は、京都府京都市西京区嵐山宮町にある神社。式内社(名神大社)で、二十二社(上七社)の一社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。
概要  京都盆地西部、四条通の西端に鎮座する。元来は松尾山(標高223メートル)に残る磐座での祭祀に始まるとされ、大宝元年(701年)に文武天皇の勅命を賜わった秦忌寸都理(はたのいみきとり)が勧請して社殿を設けたといわれる。その後も秦氏(はたうじ)により氏神として奉斎され、平安京遷都後は東の賀茂神社(賀茂別雷神社・賀茂御祖神社)とともに「東の厳神、西の猛霊」と並び称され、西の王城鎮護社に位置づけられた。中世以降は酒の神としても信仰され、現在においても醸造家からの信仰の篤い神社である。境内は、神体の松尾山の麓に位置する。本殿は室町時代の造営で、全国でも類例の少ない両流造であり国の重要文化財に指定されている。また多くの神像を有することでも知られ、男神像2躯・女神像1躯の計3躯が国の重要文化財に、ほか16躯が京都府指定有形文化財に指定されている。そのほか、神使を亀とすることでも知られている。
社名  社名は、古くは『延喜式』神名帳に見えるように「松尾神社」と称された。現在に見る「松尾大社」と改称したのは、戦後の昭和25年(1950年)8月30日である。「松尾」の読みは、公式には「まつのお」であるが、一般には「まつお」とも称されている。文献では『延喜式』金剛寺本、『枕草子』、『太平記』建武2年(1335年)正月16日合戦事条、『御湯殿上日記』明応8年(1499年)条等においていずれも「まつのお/まつのを」と訓が振られており、「の」を入れるのが古くからの読みとされる。
祭神  主祭神は次の2柱。
大山咋神(おおやまぐいのかみ)
中津島姫命(なかつしまひめのみこと) - 市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)の別名とする。『延喜式』神名帳において「松尾神社二座」と見えるように、松尾大社の祭神は古くから2柱とされた。
大山咋神について 祭神2柱のうち大山咋神(おおやまぐいのかみ)は、『古事記』(和銅5年(712年)成立)や『先代旧事本紀』において、大年神と天知迦流美豆比売(あめのかるみずひめ)の間の子であると記されるほか、大山咋神。亦の名は山末之大主神。此の神は近淡海国の日枝の山に坐し、亦葛野の松尾に坐して、鳴鏑(なりかぶら)を用つ神ぞ。— 『古事記』大国主神段(原文漢文)と記されており、比叡山の日吉大社(滋賀県大津市)の祭神と同じくする神である。神名の字義は定かでないが、「くい(咋)」を「杭・杙」と見て、山頂にあって境をなす神であるともいわれる。また、上記に見える「鳴鏑」に関連する伝承として、『本朝月令』所引の『秦氏本系帳』では、初め秦氏の女子、葛野河に出で、衣裳を澣濯す。時に一矢あり。上より流下す。女子これを取りて還り来、戸上に刺し置く。ここに女子、夫なくして妊む。既にして男児を生む。(中略)戸上の矢は松尾大明神これなり。(中略)而して鴨氏人は秦氏の聟なり。— 『本朝月令』「4月中酉賀茂祭事」所引『秦氏本系帳』(原文漢文)と見える。このような神婚譚は、大神神社や賀茂別雷神社・賀茂御祖神社でも知られる。特に『山城国風土記』逸文に記される、賀茂建角身命の子の玉依日売が川上から流れてきた丹塗矢(ここでは乙訓郡の火雷神)により妊娠して賀茂別雷命を産んだという、賀茂氏の伝承との関連が指摘される。上の記述では「鴨氏人は秦氏の聟(婿)」として秦氏と賀茂氏の関連が見えるが、両氏は平安京以前の京都盆地における2大氏族であり、秦氏の入植以前から賀茂氏は当地にあったと推測される。そして『秦氏本系帳』の神婚譚は、秦氏により賀茂氏の伝承が都合の良いように取り入れられたものといわれる。一方で、秦氏と賀茂氏とが姻戚関係により連携して祭祀を行なったことが伝承の背景にあるとの見方もある。なお賀茂氏と秦氏との関連性については、上記の丹塗矢伝承のほか、松尾祭・賀茂祭で「葵祭」と称して似た祭祀を行うこと、御阿礼神事を行うこと、斎王・斎子といった巫女による祭祀を行うこと等も併せて指摘される。
中津島姫命について  もう1柱の祭神である中津島姫命(なかつしまひめのみこと)は、宗像大社(福岡県宗像市)で祀られる宗像三女神の市杵島姫命の別名とされる。『本朝月令』所引『秦氏本系帳』の別条では、筑紫胸形坐中部大神、戊辰年三月三日、天下坐松埼日尾又云日埼岑。— 『本朝月令』「4月上申日松尾祭事」所引『秦氏本系帳』として、戊辰年(天智天皇7年(668年)か)に胸形(宗像)の中部大神(中都大神の誤写か)が「松埼日尾/日埼岑」に天降ったとする。この「松埼日尾」については京都市松ヶ崎説と松尾山頂説とがある。特に後者の説では、松尾山頂に残る磐座(御神蹟)の存在が指摘され、松尾大社側の伝承では中津島姫命はこの磐座に降臨したとしている。なお、上記伝承では大山咋神の記載は見えないことについて、大山咋神の鎮座は周知のことで記載の必要がなかったとも推測されるが、詳細は明らかでない。この神が祀られた経緯は定かでないが、宗像の市杵島姫命が海上守護の性格を持つ神であることから、秦氏が大陸出身であることに由来するとする説がある。一方、『秦氏本系帳』において秦忌寸知麻留女が斎女として見えることから、巫女が松尾大社の祭祀主体であったとして、これに由来したと見る説もある。
特徴 秦氏による奉斎 松尾大社は、古代から渡来系氏族の秦氏(はたうじ)に奉斎されたことで知られる。秦氏は、秦王朝の始皇帝の後裔とする弓月君の子孫を称したことから「秦」を名乗った氏族で、同様に漢王朝の遺民を称した漢氏(あやうじ)とともに渡来系氏族を代表する氏族である。同じ渡来系の漢氏が陶部・鞍作部・工人等の技術者集団から成ったのに対して、秦氏は秦人部・秦部等の農民集団から成り、これらの人々は日本全国に分布して古代日本において最も多い人口を誇ったといわれる。秦氏発展の経緯として、『新撰姓氏録』によるとまず秦氏は大和国の葛城に定住したという。その真偽は明らかでないが、5世紀後半から末頃になると山背地方(のちの山城国)に本拠を置いたとされ、以後は山背地方で経済基盤を築き、これが長岡京遷都・平安京遷都の背景にもなった。山背地方のうち特に重要地とされたのが紀伊郡深草と葛野郡嵯峨野であり、紀伊郡の側では現在も氏社として伏見稲荷大社(京都市伏見区)が知られる。葛野郡の側では桂川の葛野大堰に代表される治水事業によって開発がなされ、現在も一帯には氏社として松尾大社のほか木嶋坐天照御魂神社・大酒神社、氏寺として広隆寺が残る。秦氏に関する文献は少ないため上に挙げた神社同士の関係は明らかでないが、松尾大社はそれらのうちで最も神階が高く、秦氏のゆかりとして第一に挙げられる神社になる。なお、前述のように松尾大社祭神の大山咋神・中津島姫命はそれぞれ日吉大社・宗像大社と結びつく神で、元々は秦氏特有の神ではなかった(他氏の神の勧請)とされる。祭神が秦氏特有でないのは伏見稲荷大社・木嶋坐天照御魂神社も同様で、いずれの社でも秦氏が入植の際に入植以前の祭祀を継承する形を採ったためと見られている。このように在地神を尊重・継承する傾向は、秦氏の祭祀姿勢の特徴に挙げられる。
酒神としての信仰 狂言「福の神」によると、松尾神は「神々の酒奉行である」とされ、現在も神事に狂言「福の神」が奉納されるほか、酒神として酒造関係者の信仰を集める。その信仰の篤さは神輿庫に積み上げられた、奉納の菰樽の山に顕著である。松尾神を酒神とする信仰の起源は明らかでなく、松尾大社側の由緒では渡来系氏族の秦氏が酒造技術に優れたことに由来するとし、『日本書紀』雄略天皇紀に見える「秦酒公」との関連を指摘する。しかし、酒神とする確実な史料は上記の中世後期頃成立の狂言「福の神」まで下るため、実際のこの神格の形成を中世以降とする説もある。それ以降は貞享元年(1684年)成立の『雍州府志』、井原西鶴の『西鶴織留』に記述が見える。社伝では社殿背後にある霊泉「亀の井」の水を酒に混ぜると腐敗しないといい、醸造家がこれを持ち帰る風習が残っている。
歴史  上古には松尾山頂の磐座(御神蹟)で祭祀が行われたといわれるが、『秦氏本系帳』では、大宝元年(701年)に勅命によって秦都理(とり)が現在地に社殿を造営し、松尾山の磐座から神霊を同地へ移したのが創建になるという。また秦忌寸知麻留女(ちまるめ)が斎女として奉仕し、さらに養老2年(718年)に知麻留女の子の秦忌寸都駕布(つがふ)が初めて祝(神職)を務めたといい、以後はその子孫が代々奉斎するとする。社殿創建以前の祭祀については、未だ明らかではない。前述(祭神節)のように松尾大社に関する古い伝承には、大山咋神が鎮座するという『古事記』の伝承、宗像の中部大神(中津島姫命)が鎮座するという『秦氏本系帳』の伝承、秦氏に加えて賀茂氏も創立に関与したとする『秦氏本系帳』の別伝承の3種類が存在するが、これらの解釈には不明な点が多い。また、大宝元年(701年)に社殿が造営されたとする記事は『伊呂波字類抄』(平安時代末頃)にも確認されるが、『続日本紀』の同年記事に山背国葛野郡の月読神・樺井神・木島神・波都賀志神等の神稲を中臣氏に給すると見えることから、松尾大社の祭祀についても中臣氏の神祇政策が背景にあると指摘される。なお、社殿を現在地に定めた理由も定かでないが、平成26年(2014年)3月に本殿背後の樹木を伐採した際に巨大な岩肌があらわとなったことから、松尾山頂の磐座での祭祀にならってこの巨岩のそばで祭祀を行うことを志向したとする説が挙げられている。
概史  古代創建後の伝承として、『江家次第』によれば天平2年(720年)に「大社」の称号が許されたという。国史では延暦3年(784年)に桓武天皇が長岡京遷都を当社と乙訓神に報告し、その際に両神に従五位下の神階が叙せられている。延暦5年(786年)[原 9]には従四位下に昇叙された。平安京遷都後も松尾社に対する朝廷の崇敬は続き、国史では神階が貞観8年(866年)に正一位勲二等まで昇叙された記事が見え、『本朝月令』ではのちに正一位勲一等の極位に達したとする。同じ秦氏奉斎社としては稲荷神社(現・伏見稲荷大社)も知られるが、松尾社は稲荷社よりも220年ほど早く正一位に達した。延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では山城国葛野郡に「松尾神社二座 並名神大 月次相嘗新嘗」として、二座が名神大社に列するとともに月次祭・相嘗祭・新嘗祭で幣帛に預かった旨が記載されている。『二十二社註式』によれば、平安時代中期には二十二社の1つとして上七社の中でも特に4番目に列している。また平安期には、寛弘元年(1004年)の一条天皇の参拝を始めとして、後一条・後朱雀・後三条・堀河・崇徳・近衛・後鳥羽・順徳ら各天皇から10度にも及ぶ参拝があり、その際には神宝奉納や祈願があったことが国史に記載されている。
中世から近世  松尾大社には古代から社領の寄進が多く、これらの社領は中世に入って荘園化した。文書では山城国を中心として遠くは遠江国・越中国・伯耆国まで及ぶ荘園を有していた様子が見える。また南北朝時代には、室町幕府から社殿造替の料所として山城1国の棟別銭と葛野1郡の段銭の宛行いを受けた。永禄11年(1568年)の織田信長入京後は、社領を一旦は足利義政近習の上野秀政に預けられたが、元亀3年(1572年)に還付された。天正3年(1575年)には山城国奉行の細川藤孝から年貢が安堵されている。豊臣秀吉の治世下においても、淀城主の杉原家次から社領等を安堵されていたが、蔵入地設定に際して得分権は限定された。江戸時代には幕府から計1,078石の朱印地が安堵された。
近代以降  明治維新後は、明治4年(1871年)5月14日に近代社格制度において「松尾神社」として官幣大社に列した。戦後は神社本庁の別表神社に列しているほか、昭和25年(1950年)8月30日に社名を現在の「松尾大社」に改称した。現在の氏子区域は右京区・西京区・下京区を主とした一帯で、京都市街地の3分の1を占め、戸数は4万戸ともいわれる。
神職  松尾大社の社家は、古くから秦氏(はたうじ)が担うとされる。『本朝月令』所引の『秦氏本系帳』によれば、大宝元年(701年)に秦忌寸都理(とり)が社殿を初めて営んだのち、養老2年(718年)に秦忌寸都駕布(つがふ)が初めて祝(ほうり:神官)を務め、以後子孫が代々奉斎したという。中世には、神主の東家や正禰宜の南家が秦姓を名乗っている。しかし社務の実権は摂社月読社の中臣系の壱岐氏(のち松室氏)が掌握して、同氏が松尾社の祠官も兼帯したとされる。近世を通じて神職は33家、神宮寺社僧は10数人にも及び、筆頭神主の秦氏は累代三位に叙、詳細は明らかでない。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~✳④大和申楽 大和国(現在の奈良県)を中心として活躍した猿楽の座。大和猿楽四座は現在の能楽協会の直接の母体である。古くから興福寺や春日大社などの神事に奉仕することを職務とし、外山(とび)座、坂戸座、円満井(えんまんい)座、結崎(ゆうざき)座の4座が特に知られて、大和四座と称された。
 室町時代に入って結崎座の観阿弥・世阿弥父子が将軍家に重んじられて猿楽を現在の能楽とほぼ同等の芸能に発展させている。以後、豊臣氏・徳川氏にも重んじられ、外山座は✳1宝生座、坂戸座は✳2金剛座、円満井座は✳3金春座、結崎座は✳4観世座となり、元和年間に金剛座から分かれた喜多流を加えた四座一流の系譜(原則として世襲)を継ぐ能楽師によって、現在の能楽協会が構成されている。

✳1宝生座 芸祖は観阿弥の長兄・宝生太夫。大和猿楽の外山座(とびざ)の流れを汲む。奈良県桜井市外山地区で始動し、宗像神社 (桜井市)には発祥の地とする碑がある。外山座はその看板役者・宝生太夫の名を取って宝生座と呼ばれるようになった。宝生座は多武峰や春日大社(若宮祭)、興福寺(薪猿楽)に参勤し、代々の宝生太夫は室町幕府に仕えた。江戸時代には五代将軍徳川綱吉がとりわけ宝生流を贔屓し、他座の囃子方を宝生流に転属させるほどであった。またその頃、加賀藩主・前田綱紀の後援を受け、加賀の地では金春流に代わって宝生流が盛んとなった。現在でも「加賀宝生」と呼ばれ、北陸では大きな勢力を誇る。その他「会津宝生」「南部宝生」「佐渡宝生」「久留米宝生」などの地域地盤が残る。十一代将軍徳川家斉も宝生流を愛好し、その隆盛を受け、1848年(弘化5年)には宝生太夫友于が大規模な勧進能を興行。この筋外橋門外での15日間の「弘化勧進能」は、江戸時代最大にして最後の勧進能となった。明治期の名人として宝生九郎知栄、松本金太郎。その薫陶を受けた松本長、野口兼資、近藤乾三、高橋進(重要無形文化財保持者(人間国宝))などの名人を多く輩出している。当代の名人として三川泉(重要無形文化財保持者(人間国宝))、近藤乾之助がいる。

✳2金剛座 ✳5法隆寺に仕えた猿楽座である坂戸座を源流とする流派で、室町初期の✳坂戸孫太郎氏勝(不明)を流祖とする。六世の三郎正明から金剛を名乗る。華麗・優美な芸風から「舞金剛」、装束や面の名品を多く所蔵することから「面金剛」とも呼ばれる。豪快な芸風で知られた七世金剛氏正は「鼻金剛」の異名を取り、中興の祖とされる。しかし、室町から江戸期においては他流に押されて振るわず、五流(観世・宝生・金春・金剛・喜多)の中で唯一独自の謡本を刊行することがなかった。江戸初期に金剛流から喜多流が分派している。江戸中期の米沢藩では8代藩主上杉重定が金剛流を長く愛好していた。安永7年(1778年)、9代藩主上杉治憲(上杉鷹山)は当時宗家の金剛三郎を隠居していた重定の元に招いている。これ以後、米沢藩士のあいだにも金剛流が広がったという。現代でも、京都を拠点とする金剛流で、東京以北に流派の団体があるのは米沢だけである。江戸時代の石高は100石。幕末の宗家は江戸の芝飯倉に在住していた。幕末から明治にかけて活躍した金剛唯一は『土蜘蛛』の千筋の糸を考案したことで知られる。1936年金剛右京の死去により、坂戸金剛家は断絶。翌1937年、他の四流の家元の推薦により、弟子家筋である野村金剛家(京都金剛家)の金剛巌が金剛流家元となり、宗家を継承。近年の名人としては金剛謹之輔、豊嶋弥左衛門がいる。現在の宗家は、1998年9月18日に金剛流二十六世宗家を継承した金剛永謹である。シテ方五流の宗家の中で唯一京都在住であり、金剛能楽堂を所有している。所在地:京都市上京区烏丸通中立売上ル 金剛能楽堂 (座席数 定席412席、補助席80席)
✳5法隆寺は、奈良県生駒郡斑鳩町にある仏教寺院。聖徳宗の総本山である。別名は斑鳩寺(いかるがでら、鵤寺とも)、法隆学問寺など。

✳3金春流(こんぱる-りゅう)は能楽の流派の一。古い文献には「今春」とも。シテ方と太鼓方がある。また、かつては大鼓方にも金春流があったが明治期に廃絶した。伝説の上では聖徳太子に近侍した秦河勝を初世としているが、実質的には室町時代前期に奈良春日大社・興福寺に奉仕した猿楽大和四座の一、円満井座に端を発すると考えられている。特に同座の中心的な太夫として活躍した毘沙王権守、およびその子金春権守が流儀の基礎を築き、権守の孫金春禅竹(五十七世宗家)にいたって飛躍的な深化を遂げた。下掛りに分類される。禅竹は、自家に伝わる伝承を基に『明宿集』を物し、猿楽の創始について述べている。「明宿集」によれば、日本における猿楽の創始者は聖徳太子の寵臣・秦河勝であったとされる。河勝は太子に従って物部守屋討伐などに功を挙げる一方、太子に命じられて猿楽の技を行い、天下の太平を祈願した(禅竹は河勝を「翁」の化身とし、また始皇帝の転生と見た)。その後河勝の三人の子のうち、末子が猿楽の芸を引き継ぎ、代々継承したといい、村上天皇の代にはその末裔・秦氏安が紫宸殿で「翁」を演じた。この氏安が円満井座の中興の祖となり、以下禅竹に至るまで代々猿楽の徒として活躍したという。金春流と金剛流は、観阿弥らが京都に進出したのちもながらく奈良を本拠地とし、そこにとどまっていたが、禅竹のころから徐々に京都に進出していった。世阿弥に師事し、その娘婿となった禅竹は、世阿弥から「拾玉得花」「花鏡」等の伝書を相伝するとともに、その演技によって当時の知識人たちから人気を集めた。また禅竹は作能にもすぐれた手腕を見せ、「定家」「芭蕉」「杜若」など現在でも演じられる佳曲を次々と生みだした。さらに「六輪一露の説」を中心とする芸論においても後代に大きな影響を与えた。このように世阿弥没後の猿楽にあって、禅竹を中心とする金春流はひろい人気を集め、大勢力となった。この時期特に活躍した人物としては禅竹の孫にあたる金春禅鳳(五十九世宗家)がいる。禅鳳は風流能の流行を担った中心的な作者であり、「生田敦盛」「初雪」などを書いた。金春流がその全盛期を迎えたのは、戦国時代末期、特に豊臣秀吉が天下統一を果たしてからである。金春安照(六十二世宗家)に秀吉が師事したために、金春流は公的な催能の際には中心的な役割を果たし、政権公認の流儀として各地の武将たちにもてはやされることとなった。秀吉作のいわゆる「太閤能」も安照らによって型付されたものである。安照は小柄で醜貌と恵まれない外見だったと伝えられるが、重厚な芸風によって能界を圧倒し、大量の芸論や型付を書残すなど、当時を代表する太夫の一人であった。この当時の金春流を代表する人物として、もう一人下間少進が挙げられる。本願寺の坊官である少進は金春喜勝(号笈蓮。安照の父。六十一世宗家)に師事した手猿楽の第一人者で、各地の大名を弟子に持ち、金春流では長らく途絶していた秘曲「関寺小町」を復活させ、「童舞抄」などの伝書を記すなどの活躍を見せた。江戸幕府開府後も、金春流はその勢力を認められて四座のなかでは観世流に次ぐ第二位とされたものの、豊臣家とあまりに親密であったことが災いし、流派は停滞期に入ってゆく。その一方で観世流は徳川家康が、喜多流は徳川秀忠が、宝生流は徳川綱吉が愛好し、その影響によって各地の大名のあいだで流行していった。この時期、金春流は特に奈良と深い関係を持ち、領地を拝領し(他の流派は扶持米)、ほかの流儀が興福寺との関係をうすれさせゆくなかで薪能に謹仕するなど、独特の態度を見せた。地方で行われる翁神事の中には、金春流の影響を受けたものが少なくない。また大和の所領では幕末、兌換紙幣である金春札を発行するなど、経済的にも恵まれていた。しかしこの金春札は、維新後の混乱で価値を失い、金春家が経済的に没落する原因の一つともなった。明治維新後、金春宗家は奈良などで細々と演能を続けているにすぎなかったが、こうした流儀の危機にあって一人気を吐いたのが、宝生九郎、梅若実とともに「明治の三名人」といわれた桜間伴馬(後に左陣)である。熊本藩細川家に仕えていた桜間家は維新後に上京。能楽全体が危殆に瀕していた時期にあって、舞台、装束、面などが思うように手に入らない劣悪な環境のなかで、宝生九郎らの援助によって演能をつづけ、東京における金春流の孤塁を守った。伴馬の子・桜間弓川も父の後を承けて活躍した。その後は桜間道雄のほか、七十八世宗家金春光太郎(八条)の長男・金春信高が上京し、奈良にとどまった叔父・栄治郎(七十七世宗家)などともに流儀の頽勢を挽回すべくつとめた。七十九世宗家を襲った信高は、他流に比べて整備の遅れていた謡本を改訂し(昭和版)、復曲などによる現行曲の増補につとめ(金春流の所演曲は五流のなかでももっとも少なく、大正末年の時点で153曲しかなかった。しかもこのなかには「姨捨」「砧」など多くの秘曲・人気曲が含まれておらず、この点が流勢低迷の要因の一ともなっていた)、積極的に女流能楽師を認めるなど、多くの改革を行った。現在、シテ方金春流は東京、奈良、熊本、名古屋などを主たる地盤として活動するが、能楽協会に登録される役者は100名強である。型、謡とも濃厚に下掛りの特色を残し、芸風は五流のなかでももっとも古風と評される。現在の宗家は信高の長男八十世金春安明(こんぱるやすあき)。

✳4観世座 流祖観阿弥清次(1333年〜1384年)は山田猿楽の✳5美濃大夫に養子入りした何某の三男で、結崎座の大夫(「棟梁の仕手」)となった。それまで式三番など神事猿楽を中心としていた結崎座を猿楽中心の座へと改め、中年以降は次第に猿楽の名手として大和以外でもその芸が認められるようになった。特に1374年ごろに行われた洛中今熊野の勧進能において足利義満に認められ、以後貴顕の庇護のもと近畿を中心に流勢をのばした。

二世世阿弥元清(1363年?〜1443年)はその美貌によって幼時より足利義満・二条良基・佐々木道誉らの庇護を受け、和歌・連歌をはじめとする上流の教養を身につけて成長した。父観阿弥の没後は、観世座の新大夫として近江猿楽の犬王らと人気を争い、それまで物まね中心であった猿楽能に田楽能における歌舞の要素を取りいれていわゆる歌舞能を完成させた。足利義持の代となると、義持の後援した田楽の名手増阿弥と人気を争う一方で、『高砂』『忠度』『清経』『西行桜』『井筒』『江口』『桜川』『蘆刈』『融』『砧』『恋重荷』などの能を新作し、『風姿花伝』『至花道』『花鏡』といった能楽論を執筆して、実演・実作・理論の諸方面で能楽の大成につとめた。世阿弥は1422年ごろの出家と前後して、大夫を長男観世元雅(?〜1432年)に譲った。元雅は世阿弥が『夢跡一紙』で「子ながらもたぐひなき達人」と評したほどの名手で、『隅田川』『弱法師』『歌占』『盛久』など能作においても優れていた。しかし義持の没後、世阿弥の甥音阿弥(観世元重)を後援する足利義教が将軍に就任すると、仙洞御所での演能の中止(1429年)や醍醐寺清滝宮の楽頭職を音阿弥と交代させられるなどさまざまな圧迫が世阿弥・元雅親子に加えられ(国史大辞典)、1432年に元雅が客死した翌年には音阿弥が観世大夫を襲う(現在では音阿弥を三世とする)。晩年の世阿弥は『拾玉得花』を女婿金春禅竹に相伝し、聞書『申楽談義』を残すなどなお意欲的に活動したが、1434年、義教の命によって佐渡に配流され、ここに観世座は完全に音阿弥の掌握するところとなった。観世大夫を襲って後、三世音阿弥元重(1398年〜1467年)は猿楽の第一人者として義教の寵愛を受け、「当道の名人」として世阿弥以上の世評を博したと考えられている。
✳5山田猿楽美濃大夫 桜井市山田にあった猿楽(山田猿楽)で,多武峰参勤猿楽(多武峰猿楽)だったらしい。
奈良県多武峰(古くは〈たんのみね〉)の談山神社に勤仕した猿楽能。談山神社は明治以降の名で,古くは神仏混交で妙楽寺と寺社総合して単に多武峰と呼ばれることが多かった。世阿弥の《申楽談儀(さるがくだんぎ)》,金春(こんぱる)禅竹の《円満井(えんまい)座壁書》《明宿(めいしゆく)集》には,多武峰参勤が大和猿楽四座の義務であったことが述べられており,例年10月10日から16日まで催される維摩(ゆいま)八講会に付随して,13,14日に猿楽が演じられ,八講猿楽と呼ばれた。

伊賀の国に、平氏の一族で服部の杉の木という人があった。その子息を宇陀の中という者が養子にしていたのだが、これが京都で妾腹に子を生ませたのである。その子を養子に貰い受けたのが、山田猿楽の座にいた美濃大夫であった。この美濃大夫の養子となった人が後に三人の子を儲ける。即ち、長男が後の宝生大夫、次男は生一、そして末の弟が観世大夫である。

✳⑤世阿弥(1363年~1443年)は、日本の室町時代初期の大和申楽結崎座の申楽師。父の観阿弥とともに申楽(猿楽とも。現在の能また歌舞伎の祖形ともいう)を大成し、多くの書を残す。観阿弥、世阿弥の能は観世流として現代に受け継がれている。幼名は鬼夜叉(おにやしゃ)、そして二条良基から藤若の名を賜る。通称は三郎。実名は元清。父の死後、観世大夫を継ぐ。40代以降に時宗の法名(時宗の男の法名(戒名)は阿弥陀仏(阿彌陀佛)号。ちなみに世は観世に由来)である世阿弥陀仏が略されて世阿弥と称されるようになった。世の字の発音が濁るのは、足利義満の指示によるもの。正しくは「世阿彌」。
生涯  世阿弥が生まれたとき、父である観阿弥は31歳で、大和申楽(猿楽)の有力な役者であった。観阿弥がひきいる一座は興福寺の庇護を受けていたが、京都へ進出し、醍醐寺の7日間興行などで名をとどろかせた。世阿弥は幼少のころから父の一座に出演し、大和国十市郡の補巌寺で竹窓智厳に師事し、参学した。1374年または1375年、観阿弥が新熊野神社で催した申楽(猿楽)能に12歳の世阿弥が出演したとき、室町将軍足利義満の目にとまった。以後、義満は観阿弥・世阿弥親子を庇護するようになった。1378年の祇園会では将軍義満の桟敷に世阿弥が近侍し、公家の批判をあびている(「後愚昧記」)。1384年に観阿弥が没して世阿弥は観世太夫を継ぐ。当時の貴族・武家社会には、幽玄を尊ぶ気風があった。世阿弥は観客である彼らの好みに合わせ、言葉、所作、歌舞、物語に幽玄美を漂わせる能の形式「夢幻能」を大成させていったと考えられる。一般に申楽者の教養は低いものだったが、世阿弥は将軍や貴族の保護を受け、教養を身に付けていた。特に摂政二条良基には連歌を習い、これは後々世阿弥の書く能や能芸論に影響を及ぼしている。義満の死後、将軍が足利義持の代になっても、世阿弥はさらに申楽を深化させていった。『風姿花伝』(1400年ごろ成立か)『至花道』が著されたのもこのころである。義持は申楽よりも田楽(伝楽)好みであったため、義満のころほどは恩恵を受けられなくなる。義持が没し足利義教の代になると、弾圧が加えられるようになる。1422年、観世大夫の座を長男の観世元雅に譲り、自身は出家した。しかし将軍足利義教は、元雅の従兄弟にあたる観世三郎元重(音阿弥)を重用する。一方、仙洞御所への出入り禁止(1429年)、醍醐清滝宮の楽頭職罷免(1430年)など、世阿弥・元雅親子は地位と興行地盤を着実に奪われていった。1432年、長男の観世元雅は伊勢安濃津にて客死した。失意の中、世阿弥も1434年に佐渡国に流刑される。1436年(永享8年)には『金島書』を著す。後に帰洛したとも伝えられるが、幼少時に参学した補巌寺に帰依し、世阿弥夫妻は至翁禅門・寿椿禅尼と呼ばれ、田地各一段を寄進したことが能帳に残っている。大徳寺に分骨されたのではないかといわれている。「観世小次郎画像賛」によれば嘉吉3年(1443年)に没したことになっている。
業績  世阿弥の作品とされるものには、『高砂』『井筒』『実盛』など50曲近くがあり、現在も能舞台で上演されている。また、『風姿花伝』などの芸論も史料価値だけではなく、文学的価値も高いとされている。
芸道論   著書『風姿花伝』(『風姿華傳』、『花伝書』)では、観客に感動を与える力を「花」として表現している。少年は美しい声と姿をもつが、それは「時分の花」に過ぎない。能の奥義である「まことの花」は心の工夫公案から生まれると説く。「秘すれば花なり。秘せずは花なるべからず」として『風姿花伝』の内容は長らく秘伝とされてきた。
代表作  世阿弥は数多くの謡曲を残している。謡曲とは、能における節と詞(ことば)、または能の脚本(謡本)そのものを指す。
弓八幡・高砂・老松・実盛・頼政(平家物語)・忠度(平家物語)・清経(平家物語)・敦盛(平家物語)・八島(平家物語)・井筒(伊勢物語)・恋重荷・錦木・砧・融・当麻・野守(万葉集の歌が典拠)・鍾馗・鵺(ぬえ:平家物語)・桜川・花筐(はながたみ)・葦刈(あしかり)・春栄・西行桜(さいぎょうざくら)・檜垣(ひがき)
著作  世阿弥は父の遺訓、また自ら会得した芸術論を、「道のため、家のため」(『風姿花伝』)多数書き遺した。その伝書は秘伝とされ、世阿弥の血筋を承けた越智観世家、そして観世宗家、また女婿禅竹を通じて金春家などが多く所蔵した。室町後期に越智観世家が絶え、観世宗家から入った養子が再興したことで、越智観世が最も多く有していたといわれる伝書はあらかた観世宗家に渡った。またそれとは別に、越智観世から複数の伝書が能を愛好した徳川家康に献上され、家康を通じて細川幽斎や織田信忠がこれを手に入れている。近世にも能楽関係者や一部大名家を除いて、出回ることはほとんどなかった。数少ない例外として、14代大夫の観世清親とともに世阿弥伝書の収集に尽力した15代大夫の観世元章が、1772年に『習道書』に注釈を加えて出版し、座衆の一部に配布したこと、元章の後援者であった田安宗武が観世大夫が所蔵する本の一部を書写したこと、そして1818年に柳亭種彦が家康の蔵書であった『申楽談儀』を手に入れ、周囲の文人数名が写本を作ったことが挙げられるが、これ以外に目立った形で世阿弥の著作が表に出ることはなかった。20世紀に入り、吉田東伍が『世阿弥十六部集』を出版し、当時知られていた世阿弥の伝書を一挙刊行した。以後研究が進み、現在では世阿弥の伝書として二十一種が認められている。
世阿弥の伝書一覧 
『風姿花伝』『花習内抜書』『音曲口伝』『花鏡』(かきょう)『至花道』『二曲三体人形図』『三道』『曲付次第』『風曲集』『遊楽習道風見』『五位』 - 河合隼雄は日本語には「人間ができている」という表現があるが、これは雲をつかむような話なのだが、『九位』は幸いに大変参考になり、心理療法家の修行にも役立つと述べている。『九位』『六義』『拾玉得花』『五音曲条々』『五音』『習道書』『夢跡一紙』『却来華』『金島書』『世子六十以後申楽談儀』『金春大夫宛書状』

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