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不便さに感じる「趣き」【コーヒーミルで豆を挽く】

「ミルで豆から挽いてコーヒーを飲みたい」

そう思って当てにしていた段ボールを引っ張り出してみたものの、そこにミルはなかった。

冗談で「これ使ったら?」と言って母親が指さしたのは、たまに使用するドリッパーに付属した豆を挽く機械。ボタン一つで電動で砕いてくれるものである。
「それはちょっと違うのよ」とツッコミを返した自分に、ああ、私はコーヒー豆を挽くことそのものが目的ではないのか、と改めて理解した。

いまやボタン一つで豆を挽く機械もあれば、既に挽かれた状態で販売されているものも多数ある。もっと言えば家庭用として主流なのはインスタントコーヒーだろうし、お手軽なスティックタイプも重宝されているのではないだろうか。

「コーヒーを飲む」という目的だけを考えれば、わざわざミルで豆を挽く必要はない。その方が美味しさがアップする、という話には一理あるのかもしれないが、私の舌ではインスタントでも十分満足感を得られているし、もしコーヒーにこれ以上の美味しさを求めるのであれば、名高い喫茶店にでも行くだろう。

そうとするのであれば、私が「ミルで豆を挽く」ことの本当の目的はなんなのか。
それはきっと、メッセージアプリや電子メールが普及した世の中で、手書きで便箋に文字を書きたくなるような、あるいはライターがあるにも関わらず、キャンプで火起こしに挑戦するような、そんな気持ちなのだと思う。

次々と効率化される世の中で”より不便なもの”が選ばれる理由は、その不便さに「趣き」を感じているからかもしれない。ただ不便で時間が浪費されるだけのものは自然と世の中から消えて行ってしまうのだろうが、かかっている”時間そのもの”に人が魅力を感じた時、それは便利さ以上の価値を持ち、姿を残してゆくのだろう。

自らが「趣き」を感じるものに時間を費やすために、その他の場面で効率化されたものを選ぶ。その選択はきっと人それぞれだ。
便利なものが増えてゆくのも、その中である一定のアナログチックなものが残ってゆくのも、人の価値観が人間の数だけあってこそ。私は私の思う「趣き」を、大事に抱きしめていきたい。

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