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北斗に生きる。-第2話-

徐々に戦況もたけなわとなる。
昭和十八年いずれ御国の盾と海軍予科練に志願した。予科練甲種は元中学卒であった。
早稲田中学の講義録で勉強していると言うことで、無理であったが特乙試験も一次パス。二次試験は茨城県土浦航空隊である。家から大泊港までは丸一日がかりである。

 翌日、大泊から稚内まで船で八時間。北海道に上陸、函館まで二十四時間。
今考えるとまるまる三日でようやく青森だ。
青森から十八時間、ノンビリした旅のようだが横になったのは船の中だけであった。汽車の中は四人交代で座席の下に二人寝る旅である。

土浦に着いた。宿屋かと思ったら民宿である。
十二月というのに火の気はない。縁側の戸は開けっぱなし。座っていても背中がザワザワする寒さだ。樺太、北海道からきた若者も耐えられない。

 翌朝、航空隊まで試験に向かう。途中の田圃のような中でオッサンが褌一本でヘドロの中にひざまで入り、三本鍬でレンコン掘りをしていた。当時はゴムの胴長など手に入らない。上も下も裸の作業である。折らないよう、傷をつけないよう一本、一本丁寧に掘り出していた。
冷たかろうな。今でもレンコンを食べるたび思い出す。

 航空隊まで約半里、立派な建物が並ぶ航空隊に到着した。空には赤トンボがブルンブルンと十機くらい飛んでいる。合格したらオレもあれに乗って飛ぶことが出来るのか。なんて甘い考えをした。

試験場に入った。全員これに着替えなさいと衣服を渡された。石鹸の匂いがプンプンとする。真白な試験用の服である。帽子はツバのある水平帽と違って、何となくさまになった姿である。

 第一日、学科五科目の試験である。
全く自信はなかった。元中学卒の問題ばかりで、無理もない。
食事の時間がきた。飯は七分三分(米七割)のご飯が、ドンブリくらいのアルミニュムの食器に山盛り、汁物はケンチン汁。お菜はテンプラ、煮魚、漬け物、デザートの果物までついている。これが空軍の日常の食事であるという。翌年、入隊したら全然比べものにならない食事であった。

翌日は、体力検査試験であったが、無事通ったようである。樺太の豊原からきた二人連れがいた。鉄道に就職していた二人の話聞いて驚いた。
「目の検査で0.5以下であったら不合格になるから見えないふりをしろ」と組合の上司にいわれた。何も死に急ぐことはない。遊び半分で来たという。二日目、帰りの時、軍隊には酒保が週一回あるといい、菓子包みをもらう。宿舎で夕食後食べなさいと渡された。これも真赤な嘘であった。人間といえども動物である。まして食べ盛りの若者を食べ物で釣るのは簡単である。

二日目の試験も終り、あとは野となれ山となれだ。夕食後映画を見に宿を出た。土浦でも一、二の大きさの映画館である。
座席は木の長イスである。一列毎、段々になって歌舞伎など主とするところらしい。

その日は舞台ではなく「姿三四郎」であった。
池の中に入れられじっと我慢していた三四郎は、今でも忘れることがない。
耐え忍ぶ。でもいつかは爆発する力の源になるものと、つくづく思った。二日間の試験も終り、赤いカタイ、紅丸リンゴをかじりかじり、帰路につく。新しい世界を見てきた喜びと満足感はあった。

翌年(十九年)二月、合格の通知がきた。
甲種ではなく特乙である。特乙とは即使い捨(武器)になる兵種である。人間爆弾特攻隊のことである。何の望みもなく、何の憧れもなく、軍の命令に従うしかなかった。

十九年四月、海軍に志願し合格。
入隊の日まで決まっていても徴兵検査を受けなければならないとは変な話である。
結果は十日ぐらいで甲種合格の通知がきた。
陸海両方に合格していても入隊日の早い方に出征しなければならない。すでに八月一日、三重航空隊に入隊することになっていた。
同級生の何人かは海軍不合格、徴兵検査で甲種合格。同年十月、陸軍に入隊した。翌年終戦。後シベリヤに連行され、三年間苦闘の生活の中、やっと生きて帰ってきた。帰って来たものは良かったが、仲の良かった友は病死して帰らぬ人となった。

(つづく)

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読んでいただきありがとうございます。
このnoteでは、戦争体験者である私の祖父・故 村山 茂勝 が、生前に書き記した手記をそのまま掲載しています。
今の時代だからこそできる、伝え方、残し方。
祖父の言葉から何かを感じ取っていただけたら嬉しく思います。

小俣 緑