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「本と食と私」今月のテーマ:運動―野菜炒めの味は完成したけれど

ライターの田中佳祐さんと双子のライオン堂書店の店主・竹田信弥さん2人による連載「本と食と私」。毎回テーマを決め、そのテーマに沿ったエッセイを、それぞれに書いていただく企画です。今月のテーマは、「運動」です。

野菜炒めの味は完成したけれど


文:田中 佳祐

 大学生の頃、運動場で太極拳を習っていた。
 心理学の先生が前に立って、放課後の時間に学生たちに稽古をつけてくれたのだ。先生の授業は教職免許を取得するための特別な科目で、土曜日に開講されていたため、ほとんど人のいないグラウンドでゆらゆらと不格好に体を動かしていた。
 
 太極拳の稽古の後は、学食で食事をする。平日とは異なり、限られたメニューから選ばなくてならない。私はいつもしんなりした、野菜炒めを注文した。野菜炒めは何か味が足りないような気がしたけれど、安いからという理由だけで選んだ。
 先生は、学食には来なかった。もしかしたら忘れているだけかもしれないけれど、先生と一緒にご飯を食べた記憶はない。
 
 食事の後には、いつも心理学の研究室にお邪魔して本の話をした。
 私は理工系の大学に行っていたので小説や人文書について楽しくおしゃべりするような友達は1人もいなかった。先生は私に「できるだけ原典を読んだ方がいいよ」と言った。解説書や教科書ではなく、できるだけ多くのオリジナルに触れることを勧めた。
 それ以降、私の中での本のカテゴリー概念が変わった。この世には「難しい本」と「読みやすい本」の2つがあると思っていたが、「原典」と「原典から生まれた本」に分けることができるようだ。実際にはそんな単純なものではないが、学生だった当時には新しいカテゴリーで本を理解することに面白さを感じた。
 
 最近読んだ本の話をすると、いつも先生は研究室の蔵書から1冊貸してくれた。最初に借りたのはゲーテの『若きウェルテルの悩み』だったと思う。
 ウェルテルという青年が、婚約者のいる女性、シャルロッテに恋をしてしまう。ウェルテルはその叶わない思いの絶望の果てに拳銃自殺をするというストーリーだ。その当時は、なぜこの本を貸してくれたのかまったくわからないまま読み終わってしまった。
 
 今では少しだけわかるようになった。授業の中で先生は「学校の先生をしていると、いつか自分が何をしているのかわからなくなる瞬間がある。それに気が付くと人は先生を辞めてしまう」と言っていた。
 改めて考えてみると、ウェルテルの悩みは「恋の悩み」ではなく、「どうしようもなさへの苦悩」だったのだと思う。先生なりに、それをゲーテの小説に託して伝えようとしていたのかもしれない。
 
 大人になってもっとよくわかったこともある。野菜炒めには、オイスターソースと鶏がらスープの素とみりんを入れると美味しくなるということだ。
大学の学食で食べた野菜炒めの足りないピースはすっかり埋めることができた。
 いつか、先生が私に伝えようとしていた「人生の悩み」についても、わかるようになるのかもしれない。
 その時には、先生を食事に誘ってみようと思う。


著者プロフィール:
田中 佳祐(たなか・ けいすけ)

東京生まれ。ライター。ボードゲームプロデューサー。NPO職員。たくさんの本を読むために、2013年から書店等で読書会を企画。編集に文芸誌『しししし』(双子のライオン堂)、著書に『街灯りとしての本屋』(雷鳥社)がある。出版社「クオン」のWEBページにて、竹田信弥と共に「韓国文学の読書トーク」を連載。好きな作家は、ミゲル・デ・セルバンテス。好きなボードゲームは、アグリコラ。

竹田 信弥(たけだ・しんや)
東京生まれ。双子のライオン堂の店主。文芸誌『しししし』編集長。NPO法人ハッピーブックプロジェクト代表理事。著書に『めんどくさい本屋』(本の種出版)、共著に『これからの本屋』(書肆汽水域)、『まだまだ知らない 夢の本屋ガイド』(朝日出版社)、『街灯りとしての本屋』(雷鳥社)など。最新刊は、田中さんとの共著『読書会の教室――本がつなげる新たな出会い 参加・開催・運営の方法』(晶文社)。FM渋谷のラジオ「渋谷で読書会」MC。好きな作家は、J.D.サリンジャー。

『読書会の教室――本がつなげる新たな出会い 参加・開催・運営の方法』
(竹田信弥、田中佳祐 共著 晶文社 2021年)

双子のライオン堂
2003年にインターネット書店として誕生。『ほんとの出合い』『100年残る本と本屋』をモットーに2013年4月、東京都文京区白山にて実店舗をオープン。2015年10月に現在の住所、東京都港区赤坂に移転。小説家をはじめ多彩な専門家による選書や出版業、ラジオ番組の配信など、さまざまな試みを続けている。

店舗住所 〒107-0052 東京都港区赤坂6-5-21
営業時間 水・木・金・土:15:00~20:00 /日・不定期
webサイト https://liondo.jp/
Twitter @lionbookstore
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