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小説 桜ノ宮 ⑮

「いってらっしゃい」
穏やかな眼差しで手を振る紗雪を前にして修は戸惑った。
履きなれたスニーカーがなかなか足におさまらない。
「靴ベラ、使う?」
紗雪が靴箱を開けようとした。
「いや、大丈夫」
つんのめりながら、手早く解錠しドアを開けて外に出た。
「いってらっしゃい」
再び紗雪は言った。
さっきよりもにこにこしている。
「い、行ってきます」
修は紗雪と目を合わすことができなかった。
「また、来てね」
「あ、うん」
ドアが閉まった。
返事が紗雪に届いたかどうかが心配になった。
聞こえていなかったら傷つけることになるかもしれないからだ。
マンションの共用廊下を歩きながら、修は昨夜から今までに起こったことを反芻していた。
紗雪に導かれるまま、ベッドへ行き、懐かしさを募らせて目合った。
自分以外の体温を感じられるのが嬉しくて、夢中で肌と肌をこすり合わせた。
互いの唇、舌、指先を使って答え合わせをしているうちに、どちらからともなく笑いがこぼれた。
同時に虚しさが胸をよぎった。
朝になり、紗雪が用意してくれたコーヒー、ロールパン、野菜ジュース、ヨーグルトの朝食を摂っていると、その虚しさは確かなものになっていった。
「いってらっしゃい」
玄関で言われた時、昨夜から続いていた「おままごと」に終わりが告げられた気がした。
起きていながら夢から覚めることがあるのだと、修は初めて知った。
エレベーターを降り、マンションのエントランスを出ると、まだひんやりとした春の朝がそこにあった。
修はマンションを見上げた。
バルコニーには紗雪の姿は無かった。
期待した自分を恥じ、修は歩き出した。

通りには人っ子ひとりいなかった。

コロナウイルスのせいでこの街からどんどん人がいなくなって、結局、昔の恋人にたどり着いてしまうなんて。

修は数年前に紗雪と別れたあと誰とも付き合わなかったことを心から後悔した。

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