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偽ディオニュシオス・アレオパギテス『天上位階論』のための助走

  マリオ・カッチャーリの『必要なる天使』の読書会に向けて、天使についてできるだけ調べておこうと思い立ち、天使論の古典である偽ディオニュシオス・アレオパギテス『天上位階論』を読んでみることにした。使徒時代に書かれたものであるという体裁でありながら、実は紀元500年頃に書かれたとされている。今回は、『必要なる天使』読解のための準備である『天上位階論』理解のための助走ということになる。ベンヤミンやリルケ、カフカやクレーの「天使」の分析を通じて、「新しい天使」についての思索を深めていく『必要なる天使』読解のために、天使についての伝統的な理解をまとめ、決定づけた『天上位階論』が助けとなるかは、読んでみないとわからないが、ここでは『天上位階論』の前提となる予備知識やその成立事情について、忘備録のためにまとめておく(1)。

偽ディオニュシオス・アレオパギテスとはだれか


 偽ディオニュシオス・アレオパギテスによって書かれたとされる一連の「ディオニュシオス文書」(または「アレオパギテス文書」)は、ルネサンス・宗教改革以前には、使徒パウロの直弟子のディオニュシオスによって書かれた者として受容されてきた。新約聖書の使徒言行録17章34節で「彼(パウロ)について行って信仰に入った者も、何人かいた。その中にはアレオパゴスの議員ディオニシオ、またダマリスという婦人やその他の人々もいた」と述べられている、パウロに付き従ったディオニシオが、「ディオニュシオス文書」の作者と同一視されていたのである。「アレオパギテス」とは、軍神アレスに捧げられた「アレスの丘(アレオパゴス)」に置かれていた古代アテナイの最高法院の議員を指す言葉であって、ディオニュシオス・アレオパギテスとは、アレオパゴスの議員ディオニシオという意味である。

ディオニュシオスは、パウロに師事した後、神学者ヒエロテオス(実在したかは不明)の弟子となり、その教えを後代に伝えるために著述をしたという体裁で書かれている。19世紀末から20世紀にかけての研究で、「ディオニュシオス文書」は使徒時代に書かれたものではなく、紀元500年ごろに成立したものであり、その作者は使徒言行録に記載されている「アレオパゴスの議員ディオニシオ」ではないことが明らかになったが、真の著者が誰かという問題は未だ解決していないため、暫定的に「ディオニュシオス文書」は偽ディオニュシオス・アレオパギテスと名指されるようになっている。
 

「ディオニュシオス文書」の受容の歴史


 「ディオニュシオス文書」は、使徒時代の教父、パウロの直弟子によって書かれた書物として、聖書に次ぐ権威をもって受容されてきたと言われている。「ディオニュシオス文書」の中では、『神名論』、『神秘神学』、『天上位階論』、『教会位階論』などが特に有名であるが、これら一連の文書はまず東方で、6世紀前半から流布しはじめる。7世紀にマクシモスによりこれらの文書の真作性が保証されると、以後急速に広まるようになる。西方においては、カロリング・ルネサンスの時期にこれらの文書は注目されるようになったが、その主な要因として、ギリシア文化への関心の高まりと、当時の教会政治の中枢にいたヒルドゥイヌスの政治的な思惑が挙げられている。
 9世紀にヨハネス・スコトゥス(エウリゲナ)によって、「ディオニュシオス文書」のラテン語訳が行われると同時に、『天上位階論註解』が書かれると、西方においても東方と同様に使徒的な権威を持つ書物として絶大な影響力と広がりを獲得するに至った。

偽ディオニュシオス・アレオパギテスの思想的特徴


 前述したように、「ディオニュシオス文書」は、キリスト教の使徒的伝統──聖パウロや新約聖書記者たち、師ヒエロテオスの教え──に依拠して書かれたものとみなされていたため、聖書に次ぐ権威を持つ書物として受容されてきたが、現在ではその成立は紀元500年頃とされており、その内容にも、2-3世紀のアレクサンドリアの教父(アレクサンドリアのクレメンス)や、4世紀のカッパドキア教父(ニュッサのグレゴリウス)などの影響が指摘されている。
 また、現在では、偽ディオニュシオスの思想は、同時代の異教的新プラトン主義者プロクロス(410年頃-485)との親近性があるとみなされている。新プラトン主義は、3世紀のプロティノスによって創立されたと言われているが、その内実は、プラトンのイデア論だけでなく、アリストテレスやストア学派、グノーシス主義やピタゴラス学派の思想を構成要素として取り込んだ混淆主義的なものであると言われている。プロティノスの思想は、4-5世紀にはニュッサのグレゴリウスや、アウグスティヌスによってキリスト教世界にも間接的に影響を及ぼしていたが、後期新プラトン主義の思想は、プロクロスや偽ディオニュシオスの著書を通じて、とりわけ9世紀の西方における受容に伴って、東西のキリスト教において大きな影響力を持つようになってくる。
いくつか例を挙げると、12世紀のサン=ドニ修道院の院長シュジェールは1137年から1147年頃まで行われたサン=ドニ修道院付属聖堂の改築作業を、新プラトン主義的な感性──この世のあらゆる美は神から発し、見る者を神のもとへと引き上げる手段となる──に基づいて実行し、ゴシック建築の先駆けとなったとされている(2)。またルネサンス期には、1463年にコジモ・デ・メディチによって、マルシリオ・フィチーノを中心に、キリスト教と異教(古代ギリシア思想など)の和解を目指すフィレンツェの学者や人文学者の集まりであるプラトン・アカデミーが創立された(3)。


(1)以下の本文中の記述の大部分は、今義博による解説(上智大学中世思想研究所編訳/監修『中世思想原典集成 3 後期ギリシア教父・ビザンティン思想』、株式会社平凡社、1994年、p.339-353)に拠っている。
(2) シュジェールへの「装飾への愛」に偽ディオニュシオスや新プラトン主義からの影響を見たのはパノフスキーであるが、文献学的な見地からはシュジェールへの新プラトン主義の影響関係は考えにくいとされている。筆者は不勉強のため判断ができないが、以下の論文で詳細な検討が加えられている。
http://jsmp.jpn.org/jsmp_wp/wp-content/uploads/smt/vol55/065-079_sakata.pdf
(3)T・バーギン/J・スピーク編、別宮貞徳訳、『ルネサンス百科事典』、株式会社原書房、1995年、p.437

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