人間は皆死ぬということ

死について考えているとき、死について考えることができる時それは生きていることの1番の証明であるように感じる。死んでいたら死ぬことは考えられない。人は死んだらどこにいくのでしょうか。どこでもいいけど美味しい食べ物が沢山あるところだといいな。あとは可愛い服がいっぱいあるところがいい。死んでもまだアイドルのことについて考えていたりするかもしれない。

一年前ぐらいバイトを退勤して外を歩いて帰っていた時にわたしはいつか月の綺麗な夜に死にたいと思った。雲ひとつない晴れた日でもいいかもしれないけどわたしにはきっと月の光が丁度良くて月の光に照らされながら死にたいかも。まだやりたいことあるから生きるけどいつかの話ね。

それはそうとわたしの心の中には大きさを変えながら希死念慮みたいなものがある。生理前であったり、ストレスが増えてくるとわたしの中の希死念慮は大きくなっていたりする。消えたいなんて話誰にもできないからその時は頭の中で消えたくなっちゃったな〜とか独り言を言っている。中学生の頃には希死念慮の存在が確かに心の中にあって多分これはない方がいいけれど共存するしかなくてわたしは希死念慮の存在と共に育ってきたようなものだ。死にたいと漠然と思うことがもはやわたしには良いことなのか悪いことなのか判断することができないからもうそういう感情もあっていいのではないかと一度結論を出した。いつもこんなに死にたいと思っているわけではなくて元気な時は将来のことを考えたり、未来の旅行の計画を立てている。このようにわたしの中で希死念慮は大きくなったり小さくなったりしている。

希死念慮の存在を認めているとはいえ、こうやって死について考えていることを文章に起こすことや口に出して話すことはすごく苦しくなる。涙が出てきそうになる。心のどこかでまだ抵抗しているのかもしれない。なぜこんなにも死に関しての話題は胸が詰まるような思いになるのだろうか。

大切な人に生きていて欲しいと願ってしまう。生きることは苦しいことと知っていてもそれでも生きていて欲しい。自分勝手でごめんと思う。他に何も望まないからただ生きていて欲しい。生きていたらきっとまた会える。同じ空の下にどうか生きていて欲しい。他者に生きて欲しいと思う自分がいて、そう考えている自分に気がついた時わたしは自分のことを大切に思ってくれている何人かから生きて欲しいと願われているのではないかと思った。わたしが大切な人に生きていて欲しいように大切な人から見てわたしは生きていて欲しいのかもしれない。死にたいと思う時もあるけど生きて欲しいと勝手に願ってしまうほど大切な人と会うためにわたしも生きていかねばならんと思う。そして少なくとも親は私が今自死をしたらずっと囚われてしまうとおもう。だから死ねない。多分そこがいちばんの踏ん張って生きてる理由。

誰かを嫉妬する気持ちも、死にたいと思う気持ちも、劣等感もマイナスに見える感情でないものにしたくなるけれどそれも無いことにしたくない。わたしが生きて感じていること。その感情を持って人を傷つけたりはしたくないけれどそう思うこと自体はきっと悪いことではないと思う。自分の中に湧き上がる感情を逃げないで見つめる。わたしの覚悟です。

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