欲しいのは「理解」ではなく「寛容」

僕の妻は社会不安障害です。


社会「不安」障害というだけあって、不安になることに関してはプロフェッショナルです。

一方、僕はかなり楽観的な人間です。

正直、妻がなぜ不安がっているのかが全く分かりません。

極端な時は、「晩ごはんの材料が無い」といって心を乱していることもあります。

これを僕が理解しようとするとあまり良い方向には進みません。

結局”理解できない”からです。

理解できるものではないのに理解しようとすると、「こんなことで不安になるなんて君がおかしい」みたいな最悪な結論になりかねないのです。

では、妻に不安がやってきた時、僕はどうしているか。

まず、何が不安なのかを聞きます。

そして、「○○のことで…」となったら、「じゃあこうしようか」と対処したり、「これは辞めてこっちにしようか」と回避したり、その都度一つ一つについて考えます。
自分たちにはどうすることもできないことに対する不安の時もありますが(災害だったり他人の言動だったり)、その時は「どうなったらこうしよう、ああなったらそうしよう」と、考え得るパターンそれぞれになにかしらの策を出しておきます。実際にその状況になることはあまりないのですが、ないならないでその方が良いので。
間違っても「ほら~なんにもなかったじゃん」とかは言ってはなりません。

安易に「大丈夫だよ」とか言うのも良くないです。それはただの”放棄”になってしまうので。
それと、”なんで”不安なのかは聞かないようにしています。
なんでかは本人も分からないことが多いし、何より”どうせ理解できない”からです。
ソクラテスの『無知の知』みたいに、”理解できないことを理解”すれば、だいぶ楽になった気がします。


「障害者への理解」などと聞こえのいい言葉が掲げられることがありますが、僕には「世迷言」のように感じられます。

配慮であったり思考を巡らせることも確かに大事ですが、完全に理解することは不可能だと思います。

大事なことは「理解」ではなく「寛容」、そして「対処」だと思います。

もっとも、これは障害者に対してだけではなく、マイノリティの方だったり妊婦さんだったり、個人の趣味趣向であったりと、何に対してもそう言えます。

分かり合えないことを分かった上で、互いに許しあえる世の中になればいいと思います。



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