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魅力的な人物 —高橋新吉の詩「じゃがいも」について—

 今回は、高橋新吉の「じゃがいも」という詩について見ていきます。


   じゃがいも 高橋新吉

  一つのじゃがいもの中に

  山も川もある


 この詩の語り手は、変なことを言っている人物です。「一つのじゃがいもの中に/山も川もある」。じゃがいもの中には当然、山も川もありませんから、この人物の言うことは、一見、デタラメであるように思えます。
 しかし、実際に、じゃがいもをよく観察してみてください。すると、たしかに、じゃがいもの中には、山のようなものや、川のようなものがあるように見えることが、分かると思います。じゃがいもというものは、でこぼこしているため、それが、山のように見えたり、川のように見えたりするのです。
 ですが、それが分かっても、この人物の言っていることは、まだうまく飲み込めません。なぜなら、じゃがいもにあるそのでこぼこは、実際には山でもないし、川でもないからです。この詩の内容が、仮に、「一つのじゃがいもの中に 山のようなものもある 川のようなものもある」というものであれば、よく理解できます。しかし、この詩は、そのような形を取ってはいません。
 ここで、その中に山や川を持っている「じゃがいも」とは、一体何のことを指しているのか、改めて考えてみましょう。——よく考えると、それは、「地球」のことを言っているのではないか、という可能性に思い至るでしょう。なぜなら、「地球」は、山や川を実際に持っている上に、その形状は、「じゃがいも」に似ているからです。ここでは、「じゃがいも」のでこぼこが、地球の山や川に似ている、という考えを逆転させて、むしろ地球の山や川の方が、「じゃがいも」のでこぼこに似ているのだ、と考えることがポイントとなります。そうすると、「地球は<じゃがいも>の一種である」という語り手の考えを読み取ることができ、地球という一つの「じゃがいも」の中には、山も川もある、という主張を受け取ることができるのです。このように考えれば、「この詩の中では、<じゃがいも>とは地球のことを指しているのだ」という説が理解できるでしょう。
 ここで、この詩の語り手が、地球のことを、あくまで「じゃがいも」と呼んでいるという事実に注意してください。この「地球を<じゃがいも>と呼ぶ」という事柄は、語り手の特徴であると言えます。
 この人物は、地球という一つのモノに対して、その正体を「じゃがいも」であると考える、一見、変な人です。しかし、地球は「じゃがいも」などではない、と考えている私たちも、実はそれほどの確信を持ってそう考えているわけではないとも言えます。皆が、「地球は<じゃがいも>ではない」と口を揃えて言っているために、自分もそれに倣って言っているだけではないでしょうか。それに対して、この人物は、「地球」が「じゃがいも」に似ているということを踏まえた上で、「地球は一つの<じゃがいも>だ」と考えている。この考えは、実は、「地球はあくまでも惑星であり、芋ではない」という私たちの考えと、同じように成り立つと言えるのです。
 このことについて詳しく説明すると、ここでは、地球を一体何に分類するかということが問題になっているのです。地球と「じゃがいも」を全く別なものと考える私たちの分類法は、たいへん緻密なものではあるけれども、あくまでも人間が作り出したものであり、必ずしも絶対的なものではありません。だから、地球を「じゃがいも」というカテゴリーの中に入れるという新しい分類法を提唱することは、実は可能なのです。
 このように、「地球は<じゃがいも>じゃない」という考えと、「地球は<じゃがいも>である」という考えは、どちらも成り立つのでした。どちらも同じように成り立つのならば、他の人の考えを真似している私たちよりも、ユニークな姿勢を大胆に取る語り手の方が、魅力的な存在であると言えないでしょうか。この人物は、だから、他人と違っていることを恐れない、大変魅力的な人物であると言えます。

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